浮世絵研究者が「写楽複数人説」を裏付けた役者絵を比較…後期作品は別人が描いたとわかる"顔のパーツ"とは

浮世絵研究者が「写楽複数人説」を裏付けた役者絵を比較…後期作品は別人が描いたとわかる"顔のパーツ"とは

蔦屋重三郎がプロデュースした「写楽」はひとりだったのか?

NHK大河「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」ではその正体がどう描かれるのか注目される写楽。『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の著者・増田晶文さんは「蔦重は写楽の個性に惚れ込んでいたが、写楽のモチベーションは低下し、後期は別の絵師が描いたという説もある」という――。 ※本稿は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

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東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」(東京国立博物館蔵)、江戸時代・寛政6年(1794)(出典:ColBase)

戦後に進展した「写楽」の正体をめぐる研究

昭和56(1981)年、浮世絵研究家の内田千鶴子が、さらに写楽の本名と記録された斎藤十郎兵衛の身元を調べ上げ、彼の実在を確固たるものにした。文化7(1810)年刊行の『猿楽分限帳』と『重修猿楽伝記』に斎藤十郎兵衛に関する記載を見出したのは彼女の功績だ。内田には『評伝能役者斎藤十郎兵衛』(緑の笛豆本の会)を筆頭に『写楽・考』(三一書房)、『写楽を追え』(イースト・プレス)など「写楽=斎藤十郎兵衛」を追究した著作がある。

平成9(1997)年には、埼玉県越谷市にある浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に斎藤十郎兵衛の記録が残されていることが判明した。調査したのは特定非営利活動法人「写楽の会」のメンバー。法光寺は江戸時代には築地にあり平成5年に当地へ移転している。過去帳には「八町堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良兵衛事」が「辰(文政三年/一八二〇)三月七日」に「五十八歳」で没したことが記されている。

斎藤十郎兵衛が写楽であることを隠し通そうとした理由については、当時の浮世絵師の社会的立場、歌舞伎役者をモデルにした事々との関係で説明されている。

十郎兵衛は能役者でありながら阿波藩の下級士分に取り立てられていた。そういう身分の者が、寛政の改革で厳しい規制の対象となっている浮世絵、さらには幕府から眼をつけられている蔦重と深い関係にあるとは公表しづらいことだった。

下級士分で、隠れて浮世絵を描く必要があった

浮世絵師が「画工」と職人扱いされ、琳派や狩野派、土佐派など幕府、朝廷御用達のオーセンティックな御用絵師とは区別されていたこともある。版画を量産する浮世絵師は、肉筆画に専心する御用絵師より格下にみられていた。

これらの事由が交錯し、十郎兵衛当人はもちろん、蔦重も写楽の正体については頑なに口をつぐんだのは想像に難くない。前の記事で述べた『諸家人名江戸方角分』で三代目富三郎が「斎藤十郎兵衛」「阿波藩の能役者」に触れなかったのも同じ理由からの、「写楽=十郎兵衛」に対する配慮だろう。

写楽の活動期間の短さについては、内田が能役者としての活動が約1年ごとの交代制だったことを指摘している。阿波藩の能役者は舞台に上がらない期間、割と自由な行動が許容されていたようだ。蔦重はそれを見込んで写楽に浮世絵を描かせたということになる。

もし写楽の画が大ヒット、未曾有のセールスを記録していれば蔦重は黙っていなかっただろう。1年の活動休止を経て再び写楽に絵筆を持たせたはず――でも、それは果たせぬ夢だった。

世間は写楽より初代歌川豊国の役者絵を支持したし、蔦重も寛政8(1796)年の秋頃から持病が悪化、本屋としての活動をペースダウンせざるを得なかった。

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写楽の上の絵と同じく、三代目大谷鬼次が演じる江戸兵衛を描いた。歌川豊国「役者舞台之姿絵 まさつや」(ボストン美術館蔵、ウィリアム・スタージス・ビゲロー・コレクション)、1794年
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2025.10.16

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