だから沖縄だけがいつも犠牲になる…佐藤栄作が沖縄返還と引き換えに侵した「非核三原則」の聖域
密約に頼らざるをえなかった首相の苦悩
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1960年代後半、日米関係は沖縄をめぐって揺れていた。朝日新聞編集委員の藤田直央さんは「佐藤栄作首相は「核抜き・本土並み」の沖縄返還を掲げながら、それを骨抜きにする密約をニクソン大統領と交わしてしまった」という――。(第2回/全3回) ※本稿は、藤田直央『極秘文書が明かす戦後日本外交 歴代首相の政治決断に迫る』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
非核三原則の「抜け穴」
1972年より前、沖縄には核兵器があった。敗戦した日本が52年に主権を回復する際に、太平洋戦争を経て米国の軍事拠点となった沖縄は切り離され、米国が統治したからだ。
両政府の交渉を経て、69年の首脳会談で沖縄の72年返還に合意。米軍基地の核兵器は撤去されることになったが、その際に首相佐藤栄作と大統領ニクソンが、緊急時には再び持ち込むという文書「合意議事録」にひそかに署名していた。
合意議事録の存在は四半世紀後、佐藤の密使を務めた元京都産業大学教授の若泉敬が著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(以下『他策』/1994年)で、首脳会談に向けた大統領補佐官キッシンジャーとの綿密な極秘交渉を含めて明かした。
この合意議事録の密約性を如実に示す関連文書を、筆者は2022年に入手した。沖縄返還から半世紀ということで何か書けないかと取材していたところ、佐藤の孫娘の夫にあたる参院議員の阿達雅志から提供を受けた。若泉が亡くなる2年前の1994年に、佐藤の次男で衆院議員だった信二に「参考資料」として送ったものだった。
その中に若泉自筆とみられる、ニクソンとの会談に臨む佐藤のためのシナリオがあった。沖縄の72年返還に向け米軍の核兵器をどうするかについて、会談後に発表する共同声明でのあいまいな表現ぶりに合意した上で、佐藤とニクソンだけで別室へ移り合意議事録に署名するという一連の流れが、細かく示されている。
密約が明らかになったワケ
合意議事録のことには「会談中を通じて両首脳とも一切ふれない。(完全極秘事項)」とするなど、隠蔽も徹底している。
佐藤家では、佐藤の遺品にあった合意議事録の原本とともに、この「若泉シナリオ」を所蔵してきた。阿達によると、伏せたままにすべきか、明かすべきか、いっそ燃やしてはといった様々な意見があったという。
義父にあたる信二は「墓場まで持っていく」と語っていたが、民主党政権での日米密約の検証中に、合意議事録の原本を朝日新聞などに明かした。
信二の秘書だった阿達はその意をくみ、合意議事録の原本と若泉からの「参考資料」をコピーし、信二が2016年に亡くなった後も手元にとどめた。
筆者に対して22年に「若泉シナリオ」を明かした理由を問うと、「佐藤首相の苦渋の決断を若泉氏が身命を賭して支えたことを、沖縄返還50年の節目に伝えるべきだと考えた」と語った。