なぜ「ばけばけ」モデル・小泉セツは貧乏なのか…明治維新で"無職になった武士"がすがった意外な仕事
"退職金"を元手に始めた"公債織"ブームとは
Profile
NHK朝ドラ「ばけばけ」で注目を集めるヒロインのモデル・小泉セツは、なぜ貧しい幼少期を送ったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、当時の士族たちの暮らしをひもとく――。
士族の娘・小泉セツが11歳で働きに出た事情
朝ドラ「ばけばけ」(NHK)では、トキ(髙石あかり)は、借金を返すために親戚の雨清水傳(堤真一)が経営する機織り工場で働くエピソードが描かれた。同じく明治維新で没落した士族でありながら、困窮しているトキと松野家に対して雨清水は、どこか羽振りがよさそう。それほど、機織り工場というのは儲かるものだったのか?
実は、機織り工場こそが明治維新で没落した士族たちが、新たな職を求めて飛びついたものだった。それは、トキのモデルである小泉セツに人生の浮き沈みをみせたものであった。
長谷川洋二の伝記『小泉八雲の妻』によれば、セツは当時の義務教育だった小学校下等教科を終えた時点で学業を終えたとしている。養家の稲垣家が経済的に困窮していたためだ。
当時の学制では、初等教育はさらに上等教科が3年あったのだが、それに通わせる余裕すらなかったのだ。そんな状態にありながら、養父である稲垣金十郎は十分な稼ぎを得ることができなかった。ゆえに、セツは11歳で家計を担う責任を負わされたのである。
この時、セツに働く場所を提供したのが、実父である小泉湊だった。金十郎と同じ士族でありながら、湊は新しい時代に対応しようと発憤していた。明治8年には家禄の八分の五を奉還して680円を手にし、2年後に残り593円を金禄公債として得ている(『小泉八雲の妻』)。多くの士族が、こうして得た大金を元に商売に手をだしたわけだが、湊が始めたのは、機織りであった。
無職になった武士たちが選んだ仕事
この時代、機織りに参入する士族は非常に多かった。
日本では、江戸時代から商品生産が活発化し全国各地で家内制手工業として機織りが盛んに行われるようになっていた。維新後、政府は殖産興業政策のもとで、その工業化を熱心に進めた。
その重要度は高く明治7年には織物業が全工業生産額中の14.5%を占めるにいたっている(神立春樹「明治・大正期における織物業発展の地域的諸類型」)。この産業の発展は全国的に、かつ長期間にわたって拡大を続けている。つまり、湊は新時代を見てもっとも成長性のある産業に手を出したというわけである。
もっとも、その事業の規模は決して大きいものではなかったようだ。長谷川洋二は『小泉八雲の妻』の中で、湊の会社の実態について調査したことを記している。
ここで長谷川は資料調査の結果として、湊が経営に参画していたのは明治10年に松江市殿町に資本金1万3150円で設立された立生社の可能性が高いとしている。ただ、当時は資料に記録されていない会社も多かったようで、確証を得ることは困難であるともしている。
ともあれ、明らかなのは松江においても織物は将来有望な産業で、一時の大金を手にした士族たちがこぞって参入する産業であったということだ。