西国版「本能寺の変」であっけなく滅亡…「吉田郡山城の戦い」で毛利元就と結び完勝した戦国大名の名前
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織田信長がまだ子どもだった頃、中国地方で領地を拡大し、大都市を築いた守護大名がいた。歴史家の乃至政彦さんは「その武将は先駆的な為政者として天下の注目を集めていたが、家中の統制を徹底できず、西国版の本能寺の変ともいえる大寧寺の変で、あっけなく滅亡した」という――。
非業の死を遂げる10年前、反乱勢力を討つため広島へ出兵
大内義隆(おおうち・よしたか)
永正4年11月15日(1507年12月18日)~天文20年9月1日(1551年9月30日)
戦国時代の守護大名。周防国(山口県南部)の在庁官人・大内氏の第16代当主。第15代当主・大内義興の嫡男。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務め、領土を広げる。フランシスコ・ザビエルと2回接見し、領土でのキリスト教布教を許可する。しかし、その政治に不満を抱いた家臣に謀反を起こされ、「大寧寺の変」にて一族と共に自害した。享年44歳(満年齢)。
戦国武将の運命を決めた城。今回は西国一の覇権をめぐって、安芸国(広島県西部)は吉田郡山城を中心に争われた大内義隆と尼子詮久の一大合戦を取り上げたい。
天文9年(1540)正月9日、周防国の大内義隆は首都・山口を発して、同国防府に本陣を置いた。そして先手勢の到着を待って、安芸国への遠征準備を整え始めた。目的は現地にある親尼子あまこ派の国人たちを制圧することにある。
出雲国の尼子家は、義隆にとっていたく目障りな存在であった。
――8年前の天文元年(1532)には、豊後(大分県)の大友義鑑が「大内包囲網」を構築した際、安芸国人・武田光和・伊予守護・河野晴通と同国海賊・村上義忠、豊前国人・城井正房に加担して、義隆をどん底に落とそうとした。
義隆が迫られた究極の選択、出雲の尼子家と戦争するか?
この包囲網は7年のさまざまにわたって続き、義隆は苦しい戦いを強いられた。だが、義隆は弱気を見せることなく、最終的には、2度も海を越えて、豊後国の大友家めがけて大軍を乱入せしめた。
勝利が見えてくる頃、京都の将軍・足利義晴から仲介が入り、義隆は大友家と和睦。ここに「勇士之芸」を堂々と見せつける形で包囲網を終了させることに成功したのだ。
ひとまず海の向こうの大友家は落ち着いた。次に目を向けるべきは勢力を拡大しようとする尼子家である。
義隆は、亡父のごとく上洛して、畿内情勢に介入することを検討しており、それには尼子との敵対関係を解決する必要があった。
シンプルに考えれば選択肢は2つ。尼子と和睦するか、または戦争するかのどちらかである。