なぜ"ならず者"が英雄になるのか…社会学者がトランプという破壊現象に見る「人間社会の闇の奥」
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トランプ米大統領の台頭は何を示しているのか。『西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』(朝日新書)を上梓した社会学者の大澤真幸さんは「トランプ大統領は、リベラルがめざしている許容的な社会の誇張された姿であり真実だ。リベラルは、トランプを通じて『あなたが向かおうとしている先には、こんな人物がいるのですが、これでよろしいでしょうか?』と問われているようなものだ」という――。
トランプ流コモンセンスの正体
トランプは、伝統的な価値、保守的な道徳の擁護者だということになっている。実際、たとえばアメリカの伝統的な価値の継承者だとされているキリスト教福音派は、トランプの重要な支持母体のひとつである。
トランプが大統領就任演説で口にした言葉の中で最も意外な語は、「コモンセンス」である。彼は、コモンセンスを継承し、守護する者として自己を提示しているし、かつ国民からもそのように見なされている。
しかし、他方で、トランプの公的なふるまいは道徳とはほど遠い。そのパフォーマンスは、保守的な価値観の中でよきものと見なされていることの正反対である。思いついたままにしゃべり、他人を口汚く罵り、品位あるマナーのすべてを蹂躙している。隠れてなされていたこと――しかしすでに暴露されていること――までも含めれば、不品行の程度はますます高まっていく。その中には、セックススキャンダルや犯罪的なことも含まれる。
この両極性をどのように解釈したらよいのか? これもまた、既成支配層の――つまり主流の――民主党的リベラルへの反発という文脈で説明できることである。しかし、ここにも逆説がある。
寛容の先に待ち受けている「トランプ」像
最初に気づかねばならないことは次のことだ。トランプを、単純にリベラルがめざしていた社会への「敵」として解釈すべきではない。「トランプ」なる人物は、むしろリベラルが指向しているものの極限に見出される像である。
言い換えれば、リベラルが理想化している状態を極端化し、戯画化して表現すれば、「トランプ」という像が得られるのだ。
どういうことか?
アメリカのリベラルが実現しようとしている社会は、寛容な社会である。かつては道徳的に望ましくないとされていたアイデンティティ――たとえば同性愛者やトランスジェンダー等々――も認められ、受け入れられる社会、かつてはタブー視されていた行動も、他者に危害を与えない限り、個人の自由の範囲として承認される社会。寛容であるということは、許容的だということだ。
ところで、道徳の本性は「禁止」にある。許容性の拡大は、したがって、伝統的な道徳から離脱していくプロセスである。このプロセスを徹底的に推し進めたらどうなるか。「(ほとんど)すべての道徳的な禁止を平気で、恥ずかしげもなく公然と侵犯する人物」という像が得られるだろう。それこそがトランプである。トランプは、リベラルがめざしている許容的な社会の誇張された真実である。リベラルは、トランプを通じて「あなたが向かおうとしている先には、こんな人物がいるのですが、これでよろしいでしょうか?」と問われているようなものだ。