【学びのカタチ】親子に大切なことを教えてくれる遊びの学校

【学びのカタチ】親子に大切なことを教えてくれる遊びの学校

2020年の教育改革を目前に、進化の真っ只中を生きる現代の子どもたち。親である私たちが受けてきた教育が当たり前でなくなるこれからの時代に、子どもに必要な教育とは何なのか?この連載では、テストや成績、運動神経など従来の評価軸では計ることのできない独自の視点で子どもの能力を伸ばす、新しい「学びのカタチ」について紹介していく。第2回では、大自然に囲まれたフィールドで、親子のための“遊びの学校”を実践する原っぱ大学 ガクチョ―、塚越 暁氏に話を聞いた。

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365日間、親子のための遊びの学校

“遊びの学校”と聞くと、どんな風景を思い浮かべるだろうか。知育玩具に触れるプログラムや、図画工作のワークショップを想像する人もいるかもしれない。今回紹介する「原っぱ大学」は、山と海に囲まれた豊かな自然を舞台にした、親子が思いっきり遊ぶ場所だ。

インタビューをお願いしたのは、原っぱ大学ガクチョ―、塚越 暁氏。日焼けした肌と豪快な笑顔が印象的だ。肩書きを“学長”ではなく“ガクチョ―”としているのも、参加者が気負わずに楽しく過ごせるように、という遊び心だそう。

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原っぱ大学ガクチョーの塚越 暁氏

塚越氏が原っぱ大学を設立したのは2015年。単発イベントを中心とした前身の「子ども原っぱ大学」から、本格的な学びの場として定期プログラムへと進化させ、これまで約500組以上の親子が参加してきた。

“365日間、親子のための遊びの学校”をコンセプトに、2~4歳対象のリトルコース、5~10歳のギャングコース、10~15歳のセイシュンラボというクラス分けで、各地から集まった親子が1年間をともに過ごすというプログラムだ。

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プログラムの最初は、みんなで焚火を囲む。子どもたちも、のこぎりで薪を割ったり、火おこしにチャレンジするという

自然豊かなフィールドが舞台となり、神奈川県逗子市のフィールド「村や」は、山と海の両方を楽しめる活動拠点。屋内の活動ができる古民家「100sai」もある。千葉県佐倉市の印旛沼のほとり、林の中にある「佐倉の森フィールド」は、開拓途中で手つかずの自然が魅力のひとつ。今春、大阪にも新しいフィールドが加わる。

特徴的なのは、そのカリキュラムの内容が“親子で遊ぶ”ことに特化しているということ。ここで行われるプログラムは、季節ごとのアクティビティと、その日の大体のスケジュールしか決まっていない。自分の好きなことを、自分で決めて、自分で遊ぶ。教科書もなければ、ルールも、正解もないというから驚きだ。

そんな原っぱ大学の考える、親にとって、子どもにとっての“遊び”とは何か、聞いてみた。

遊びの原点は、子どもの頃の記憶

塚越氏はなぜ、自然の中での遊びに取り組むようになったのか。原っぱ大学ができた経緯を語ってもらった。


2011年の大きな転機

「僕は生まれも育ちも逗子で、家からは山も海も徒歩5分の距離に住んでいました。一人っ子で、もともとは家の中で遊ぶのが好きなインドアな子どもだったのですが、母が、日焼けしていないと怒るような豪快な人で(笑)。放課後は、友達とよく外で遊んでいましたね。

野球やサッカーは苦手だったけど、友達と山を探検したり秘密基地をつくるのだけはすごく楽しかった。好きなだけ遊ばせてもらったという経験は、宝として残っています」

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その後、東京で会社員として約10年働いていたという塚越氏。しかし、2011年に大きな転機が訪れる。

「東日本大震災があり、“働くって何だろう”と一度立ち止まった時期がありました。お金のことを考えずに、自分がワクワクすることはなんだろう?と考えたら、子どもの頃の原体験が蘇ってきたんです。

ちょうどそのころ 、それで東京から地元の逗子に家族で戻って、子どもと昔の自分がそうしたように山や海で遊ぶようになっていたんです。そうしたら、子どもよりも、親である自分自身がめちゃくちゃ楽しかったんです

東京に住んでいたころは、休みの日に公園で子どもと遊んでいても、同じ遊びのくり返しでつまらなかった。子どもに付き合わされている感覚に苦手意識を持っていたので、すごく驚きました。

この驚きと発見の機会を多くの人に届けたいと思い、原っぱ大学を立ち上げました」

教科書も正解もないプログラムの本質

自由なプログラムは「問い」そのもの

――制限の少ない 、自由な環境とプログラムを提供されているのはなぜですか?

「まず、逗子市と佐倉市の2つのフィールドは、公園のように整備していません。あえて整えていないのは、参加者からできるだけ“取り上げない”ことを大切にしているからです。最初はトイレもなかったので、参加者が自分たちで考えてつくりました」

――1からみんなで作り上げる過程を楽しむということですか?

「そうです。参加者から“取り上げない”のは、遊びにおいても同じ。

自分がケガをしない、人をケガさせないということ以外にルールはありません。ポイントは、何でもOKだけど、完全に野放しにはしていないということ。季節やその場の状況に合わせて、僕らスタッフが『今日はこれとこれをやります』といくつか遊びの種を蒔く。

それは単なるきっかけでしかなく、やってもいいしやらなくてもいいんです。小さなヒントから、自分で感じて、心のままに遊んでほしい。それは、今やりたい、今やりたくないという自分の心や感覚に素直になるということ。“今”を楽しむことで、自分軸ができてくるのだと思います。

戦いごっこやりたい!って子もいれば、ただ焚火に薪をくべていたいだけの子、山に来てるのに野球のことしか頭にない子とか(笑)、いろんな子がいていいんです。

でもそれを逆に、『せっかく原っぱ大学に来たんだから泥んこになってきなさい』と親が言うケースもあります。僕らとしてはそんなことからも自由になってほしいと思っているんです。別に泥んこにならなくてもいい。遊びたいように遊べばいい、と」

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道なき道(崖)をぐんぐん登っていく子どもたち。大人は後ろから見守る。

「最初は、大人からも子どもからも『何やったらいいの?』『次は何をしますか?』という質問が聞こえてきます。それが3~4ヵ月もすると、『〇〇をやりたいんだけど、どうやったらいい?』に変わるんです。

つまり、ルールは自分たちで作れるということ。何でもできる自由なフィールドと、いっしょに参加している仲間、少しの道具と材料。その環境に親も子もどう向き合って、どう楽しみきるか。

そんな実感が大切だと思う。だから、原っぱ大学ではゴールはどうでもいい。プロセスが楽しければそれでいいかな


遊びを“つくる”ことが、今を“生きる”こと

――これまででたくさんうまれてきた遊びの中で、印象的なものは?

「毎年、夏の風物詩として100mくらいの長さの流しそうめんをみんなでつくって食べています。

こういうダイナミックなアイデアは、やりたいという声があがったとしても、大人は特に「できるかできないか」で判断するからモジモジするんです。これを言ったらどう思われるかとか、失敗したらどうしよう、とか気になりますよね。でも、僕らはぼそっと出た本音を見逃しません。『今、やりたいって言ったよね!?』と声を拾い、なんならそのプロジェクトの責任者をやってもらったりします。

あとは、去年の4月に、お父さんたちがイカダをつくると張り切り、なんとかつくって川に出たのですが、子どもたちと一緒に川に浮かんだ瞬間すぐに崩れてバラバラになって(笑)。

プロジェクトとしては大失敗なんだけど、落ち込む人はひとりもいなくて大笑いしたんですよね。できなくても、笑っちゃえ!という雰囲気になることで、失敗も含めて愉快な経験として残る。評価をしないということが大事なんです」

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夏は逗子海岸へ。イカダ作りや浜辺での水鉄砲も恒例の遊び

――失敗しても笑ってもらえるんだ、失敗も含めて楽しかったという経験によって、チャレンジすることが怖くなくなりますね。

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子どもより親に“非言語の経験”を体感してほしい

親自身が解放できる空気感

――初対面の親子同士が集まって遊ぶとなると、最初は大人は気を使いますよね?

「やっぱり最初は、親が『子どものために連れてきました』という感じの家族も多いです。ほかの子に迷惑をかけないようにと心配の面持ちもチラホラ。そんな不安を取っ払ってほしくて、2~4歳のリトルコースでは、“お互いに迷惑をかけ合おう”を合言葉にしています。

たとえば、先日あったエピソードだと、3歳の子がカマキリを捕まえてカゴに入れていたんです。そうしたら、別の子がカマキリを取り出して近くで見たいと言い出してケンカになりました。

おそらく、当人たちにとっては初めての本気のケンカ。真剣に言い争うさまが微笑ましくて僕らスタッフも周囲の大人も思わず笑ってしまったんです。二人の親御さんたちは最初、ハラハラと見ていたのですが、その雰囲気に触れたらすっとリラックスして『あ、いいんだ』という感じになって。

一見、ネガティブになりそうな“ケンカ”も場の空気次第では楽しいものになるし、そんな経験から大人もリラックスできるようになっていくと思うんです 」

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泥だらけになって、崖をすべるパパたち。

「こんな風に、ケンカをした子どもたちに謝らせるというルールは、親の気持ちをすっきりさせるためだけのものだったりしますよね。

“自分の子育てを評価されるプレッシャー”を日々感じている方はたくさんいると思います。けれど、原っぱ大学にいるときくらいは、これが正解というものを脇に置いて大人もリラックスして楽しんでもらえればと思っています」

――そのために、原っぱ大学の“遊び”という非言語の経験があるんですね。


遊んでいるうちに、親と子の距離感が変わっていく

フィールドで遊ぶ親子を見ていると、親は子どもの言動ひとつひとつを肯定的に受け止められるようになっていくと塚越氏は言う。

「非言語の経験を通して、親の勝手な思い込みであるルールや常識をおろしてあげると、次第に他人の視線に対する呪縛がとかれていきます。すると親が子を守る、コントロールするという“縦の関係”から、“横の関係”へとゆるんでいく。親子である前に、人と人との信頼関係が育まれていくと思います

大人がさまざまなしがらみから解放されてリラックスすることで、子どもたちより少し遅れるが、3~4ヵ月後には親自身も思い切り遊べるようになるのだそう。


言葉はいらない。とにかく遊んでみよう

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大人も子どもも一緒になって、木を切り、ペンキで色をつけた秘密基地。

「原っぱ大学は野外体験学習でもワークショップでもないので、そもそも僕たちは“先生”ではないんです。言葉にできないことに価値があって、『こういう風に遊べば子どもにこんな力がつくよ!』『こうやったらできます!』ということを説明したらつまらないと思っています。

たとえば、秋になると虫を食べるのが定番で、子どもたちは狩猟本能を働かせてバッタを夢中になって採集してきます。

そんなとき、僕は専門家ではないので、スマートフォンで食べて大丈夫か必死で検索して、いっしょにビビりながらやる。親と子、友達同士が、どうかなと言いながらやっていくプロセスを楽しむんです。油で揚げた虫は、塩をかけて食べると『うまっ!』となるんですが、これが、『昆虫博士に食べられる虫を教えてもらおう!』だとおもしろくない。

要するに、遊びから学ばなくてよろしい!遊びは遊びなの!みたいな(笑)」

原っぱ大学が描く、子どもの未来 

親子の遊びを通して、人と人が“生きること”そのものにアプローチをする原っぱ大学。塚越氏に、今の子どもが大人になった未来の景色を想像してもらった。


遊びの時間を、日常にも広げていく

――10年後20年後、どんな社会になっていると思いますか?

「今の世の中現代は、合理性と効率性を重視した競争社会と、個性や感性を大切にする多様化社会が対立しあっている印象です。

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僕としては個に寄り添う社会になっていってほしいですが、教育そのものを変えるのは大変なこと。僕は逗子市の教育委員として学校教育にも携わっていましたが、学校の現場で日々、『回ってる歯車を途中で止めて、ここから先は違う教育を導入します』というのはとっても難しい。

これからは、学校教育に過度に期待するのでなく、家庭や地域に遊びや勉強以外の学びを還元していくのが理想だと思います」

そのためには今の僕らのような、子どもとの時間を確保した働き方が必要になるかもしれません。フルタイムでオフィスにいることが働くことではない、というところまで変わったときにはじめて、学びのあり方も変わっていくのかな」


子どもはもともと大丈夫

――つまり、究極は、教育ではないということですよね。

「教育することで子どもを変えたいという思いはないんです。なぜなら、子どもはもともとすべて備わっているから。親子でも子ども同士でも、“こうすべき”“こうあらねば”と凝り固まりがちな関係性が、少しでもゆるやかになったらいいなと思っています」

――現代では、日々の生活で自然を体感することすら難しいと思ってしまいますが……。

「子どもは、体感する機会がどんなに少なくても、全然大丈夫。

たとえば都会育ちで、『うちの子はアスファルトの上しか歩いたことなくて、土に触れることが全然なかったから』と負い目を感じていたお母さんがいましたが、フィールドに連れてきてみたら、子どもは泥だらけになって走り回った。

親が何もしなくても、子どもは、自分なりの向き合い方で自然を取り入れ、喜びを発見する力がもともと備わっています。だから、そこに対して教育は必要ない。“その子らしさ”に親が気づいて、持ち帰ってくれればOKなんです」

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原っぱ大学名物の泥遊び。みんな思い思いの方法で、全身泥まみれに。

――どちらかというと大人が、『この子はこういう子』と型にはめてしまうことがありますよね。

「親が危ないからと子どもの遊びを取り上げたり、必要以上に子どもを守ってしまうのではなく、たとえば帰り支度して着替えたその瞬間に泥に飛びこんだ子どもに対して、おい!と思うんだけど(笑)、あとでその経験を笑っていられたらいいですよね」

――もう、子どものためっていうより、大人のための学校ですね!?

「大人も、ほぐれたら全然大丈夫ですが、やっぱり親としても社会人としてもいろんなことを背負ってるから、ややこしくなる。

だからといって、それを否定するわけじゃありません。日々を生きていれば、怒るし矛盾するし人の目も気にする。僕もそうです。でもその不完全で複雑な自分、つまり“ありのまま”を親自身が受け入れることが、子どもの不完全さ、その子らしさを受け入れることにつながります」


お互いの不完全さを受け入れられる社会へ

「これからは、不完全な人同士がともに生きられる、お互いの凸凹を尊重できるようになっていくといいですよね。

今って本当に、ニュースを見ていても他人の失敗に不寛容な印象を受けますが、少なくとも原っぱ大学でかかわった人たちが、『テヘへ、やっちゃいました』という感じで世の中に向き合ってくれたら嬉しいし、そんな社会をつくっていってくれたら未来は明るいかな。

子どもたちも、自分で考えて動いたり、はじめて会う子たちと密にコミュニケーションをとって、やりたい放題に遊んできた原っぱ大学での経験によって、社会に出たときに周囲の不完全さを受け入れられるようになっていくのだと思います」

原っぱ大学に通う親子は、自然の中での遊びをただ思い切り楽しむだけではなく、それぞれが新たな発見や感動を得ているのだろう。それは親と子の関わり方の変化につながり、これからの子どもに本当に必要な“学び”のひらめきにつながっていく。

原っぱ大学の学びのカタチ

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「お父さんお母さん、子どもは全然大丈夫だから!」原っぱ大学のフィールドでうまれる数々のドラマやおもしろい遊びを聞きながら、終始笑いに包まれたインタビューだったが、最後の塚越氏のこの言葉を聞いて、うるっときてしまった。

親が、子育ての成功モデルや固定観念から解放されて、ありのままで楽しむこと。子どもをひとりの人として見て、いっしょに“今”を生きること。慌ただしく過ぎる日々の中で、忘れていた大切なことに気づかせてもらうことができた。

遊ぶことは生きること。この原っぱ大学の価値観は、これから進化していく未来に長く受け継がれ、よりたくさんの親子を笑顔にしているかもしれない。

原っぱ大学/Webサイト

<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部

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