直木賞を受賞してすぐ、51歳でこの世を去った「最愛の友」…黒柳徹子が今も忘れられない女性との早すぎた別れ
テレビ業界で出会い、まるで姉のように慕った存在
Profile
黒柳徹子さんが書き下ろしのエッセイ『トットあした』(新潮社)を刊行。これまでの人生で出会ったさまざまな人からかけられた大切な言葉があり、30代の頃にとても親しくしていた女性からは『禍福はあざなえる縄のごとし』と教わったという――。 ※本稿は、黒柳徹子『トットあした』(新潮社)の一部を再編集したものです。
食いしん坊のトットちゃんと名脚本家の交流
ものすごく早く食べるおかげなのかどうか、私は、食べる量のわりには、あまり太らない体質みたいだった。
向田邦子さんが亡くなる少し前に、彼女のおすすめの中華料理屋さんに一緒に行ったときも、テーブルに座るなり、「太らないわね」と言われた。知り合って15年くらいになっていたけど、向田さんの体形も変わったように見えなかったので、
「あなたも変わらないじゃない」
と言うと、向田さんは笑って、
「私、氷嚢ひょうのうみたいなの!」
と言った。
ひょうのう、は袋の上のほうでくくってあって、下に行くにしたがって、中に入れた氷水で、でっぷりと、ふくらんでいく。
顔が小さい向田さんが、自分の体形を愉快にたとえた表現だった。
向田さんは、おいしい店をたくさん知っていて、よく一緒に食べに出かけた。だけど、あらためて考えてみたら、どこかのお店に行くよりも、向田さんのお部屋で、ふるまわれた手料理をおいしくいただいた回数のほうが、はるかに多いに違いない。
「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」など、数々の向田ドラマをつくった久世光彦さんは、『触れもせで 向田邦子との二十年』という本に(これは、向田さんへの久世さんの思いがたくさん、つまった本だ)、彼女の部屋で「寺内貫太郎一家」の打合せをしたときのことを書いている。
「行きづまると向田さんは台所に立って薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰しかめるくらい酸っぱい梅干しとかを持ってくる。客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった。肝心な話より、余談、雑談、無駄話の方が多くて能率の悪い部屋ではあったが、静かで楽しい部屋だった」
向田の自宅兼仕事場に入り浸っていた
ここで久世さんが書いているのは、向田さんの終ついの棲家すみかになった、南青山のマンションの部屋のことだけど、その前に向田さんが住んでいた、霞町かすみちょうマンションのお部屋も、「客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった」ことを私は知っている。居心地が良すぎて、私はほとんど毎日、霞町マンションの「Bの二」号室に入り浸っていたくらいなのだから。
それは、木造モルタル三階建ての二階の、そんなに大きくない一室だった。玄関を入ってすぐ右手に、向田さんが仕事をしている机があって、私はその脇にあったソファに横になって、向田さんとたわいのないおしゃべりをしたものだった。ソファの向いに本棚があって、その上にはいつも伽俚伽かりかというシャム猫が乗っかっていた。私が、おなかがへったと言うと、向田さんは、頭にキリリとヘアバンドをして、台所に立ち、チャッチャッと、ごはんをつくってくれた。