〈NHK大河〉父・道長より民のことを想っていた…息子である天皇と共に最高権力を握った藤原彰子87年の人生

〈NHK大河〉父・道長より民のことを想っていた…息子である天皇と共に最高権力を握った藤原彰子87年の人生

大河ドラマ「光る君へ」(NHK)で注目された一条天皇の中宮彰子。歴史学者の服藤早苗さんは「産んだ皇子が2人とも天皇となり、彰子は国母として父の道長や弟たちより大きい決定権を持った。87歳で亡くなるまで60余年間、天皇家の家長として、道長親族のとりまとめ役として君臨した」という――。

藤原道長が貴族としてトップに立てたのは、正妻と娘のおかげだった

彰子は、永延2年(988)に、母源倫子(25歳)の邸宅土御門殿で生まれた。父藤原道長(23歳)は、前年に倫子の父源雅信に婿取られ、妻の両親と同居していた。雅信は、宇多天皇の孫、そのうえ公卿のトップ左大臣である。倫子の噂を聞きつけた道長は、けっこう強引にアタックし、倫子の母にみとめられ、婿に入ったのだった。

彰子誕生の2年前、道長の父兼家たちのたくらみで花山天皇を出家させ、兼家は娘の詮子が産んだ7歳の一条天皇を即位させ、摂政になった。彰子が誕生した年、道長は参議を経ないで権中納言に昇進という異例の出世をする。父兼家の強引な人事だった。

彰子は、母倫子の女房赤染衛門などに傅かれ、将来の后として大切に育てられ、長保元年(999)11月1日、12歳で一条天皇に入内し、7日には女御になった。奇しくも同じ日、一条天皇の皇后藤原定子が、第一皇子敦康親王を出産する。本来なら第一皇子の誕生は、朝廷をあげての祝賀が行われるはずであった。ところが、定子の邸宅には貴族層がほとんど出席しない。彰子の女御祝には大挙して押しかける。

なぜか。定子の父道隆は、長徳元年(995)4月、飲水病(糖尿病)で43歳で亡くなる。当時の酒は濁り酒で糖分が多かったので、酒の飲み過ぎとされている。さらに定子の兄弟が、花山院を射る事件まで起こし、定子には後見者がいなかったからである。同母兄弟でも末っ子だった道長にとってなんとも幸運だったのは、長兄道隆だけでなく、次兄道兼も亡くなり、「棚ぼた」でトップの座が手に入ったのである。

あまりにも悲運だった皇后定子、彰子と個人的な対立はなかった

皇后定子は本当に「悲運な」皇后だった。長保2年(1000)12月、媄子内親王を出産し、24歳で亡くなってしまう。彰子はまだ13歳、皇子の出産などまだまだ先であり、しかも皇子出産の可能性も五分五分。定子の忘れ形見、敦康親王を失脚している定子の兄弟が養育し、将来皇位を継ぐことになると、故道隆一族の復活になる。

そこで登場するのは道長の知恵袋藤原行成。漢の明帝が、子どものいない馬皇后に粛宗しゅくそうを愛育させた故事を一条天皇に話し、彰子を敦康親王の養母にしたのである。馬皇后は、華美を求めず質素倹約し、修養に努めて政事にあたり、私の事を朝廷に求めない賢后だった。彰子も故事を学んだに違いない。

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「紫式部日記絵巻」に描かれた道長の長女・彰子(右上)、後一条(後一條)天皇、後朱雀天皇の生母となった(画像=「紫式部日記絵巻断簡」/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

数年後には、彰子は、敦康親王を殿舎に引き取り、まさに同居する。定子と彰子はライバルとされるが、一度も会ったことはなく、一条天皇の寵愛する敦康親王を彰子は慈しんで育てた。そのゆえもあり、一条天皇と中宮彰子の関係は良好であった。たとえば、寛弘5年(1004)11月、清涼殿で宴会を開き、酩酊した一条天皇は、殿上人を引き連れ彰子の殿舎に渡り、得意の笛を数曲奏でている。

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2024.12.18

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