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「見た目の努力しなくてもいい」ルッキズムの鎖を断ち切る方法【山崎ナオコーラ×矢吹康夫/後編】
見た目に関する差別や偏見を指す「ルッキズム」。いまだ社会に根強く残る、外見への差別や評価の思想を前に、保護者はどのように意識のアップデートを行えばよいのでしょうか。子どもと向き合う上で大切な心構えについて、作家の山崎ナオコーラさんと、社会学者の矢吹康夫さんに対談いただきました。
見た目によって他人を評価したり、差別するルッキズムの思想にまつわるさまざまな問題は、これから社会に出てたくさんの人と出会うであろう子どもたちが、どこかで直面する課題です。
作家の山崎ナオコーラさん、先天的疾患や怪我などによって外見に何らかの障がいを抱えた人たちに関する「見た目問題」を専門とし、ご自身もアルビノの当事者である社会学者の矢吹康夫さんの対談インタビュー。
前編では、「親が子どもの容姿を心配することは子どもに対する差別である」という指摘や、保護者の中に無自覚にあるルッキズム意識、子どもがルッキズムの加害者にならないための方法についてお話いただきました。
後編では、今の世の中にある「美しくなるために努力をしよう」という空気についておふたりが考えること、ブスという言葉はなくしたほうがいいのか?ルッキズムについて考えるにあたり保護者が大切にすべきことについてうかがいました。
容姿を改善する努力にばかり時間を割かなくていい
――今やテレビや雑誌だけでなくSNSで発信される情報にまで「美」にまつわる情報があふれ、誰もが簡単に変わることができる世の中になりました。一方でそれは「劣っている部分があれば、変えなくてはいけない」という強迫観念にもつながるように思います。
山崎:見た目を改善するための努力って、必ずしもしなくてもいいと思うんです。
オシャレもダイエットも、もちろんしたい人はしたらいいけれど、したくない人はしなくていい。ありのままの自分でいたいという人と、自分の目指す美しさのために努力したい人、どちらもいていいと思うのです。
矢吹:化粧をしたりオシャレしたいという気持ちも、自己表現のためにやるのか、社会に適合するためにやるのかは自問自答してみてほしいですね。
ただ、自己表現のために好きでやるのであっても、もう少し考えないといけないのは、その自己表現の基準はどこから持ってきた基準なのかということ。
つまり、自分が「こうありたい」と目指しているゴールも、結局、この社会で良いとされているものや求められている美しさであることも多いのです。どうしたって、逃げられないものなんだと思います。
「こうしなければ受け入れてもらえない」「こうしないと働けない、評価してもらえない」という気持ちが自分の中にある場合は、注意が必要だと思います。
山崎:矢吹さんもご著書『私がアルビノについて調べ考えて書いた本』で書いていらっしゃいましたが、努力が好きじゃないという人だって、世の中にはたくさんいますよね。「頑張れる人」がスタンダードなのはよくない。
見た目問題の当事者の方もそうだと思うのですが、やっぱり努力して変わった人やオシャレを工夫している人、メンタルが強い人が世の中で注目を浴びやすいし目立つから、それを見た人は自分もこんな風にならなきゃと思ってしまうことも多いと思うんです。
ありのままの容姿や体型でいたい人に対し、頑張れ、社会に合わせろ、というプレッシャーが生まれてしまう可能性もあるわけですよね。
「ダイエットをすれば痩せるのだから、努力せずに自分で太る選択している人は社会からはじかれても仕方ない」「生まれつきの髪の色を染髪で変化させて校則規定に合わせなくてはいけない」といった考えを押し付けるのはひどい話です。
矢吹:見た目問題やユニークフェイスの当事者たちは、身体的には問題なく働けるのに、就職活動などにおいて見た目を理由に採用を断られるといった差別をされてきた歴史があります。
しかも、「健康な体で動けるのだからいいじゃない」と、そうした問題をなかったことにされてしまうことも多かったのです。
では果たしてそれは当事者たちの「努力が足りなかった」ということなのか?違いますよね。
生まれながらにして変えられない物事について何かを言ってはいけないというのはそもそも差別の基本中の基本。これはしっかりと保護者が子どもに教えるべきことだと思います。
山崎:私はたとえば努力で変えられるかもしれないことについても、同様だと考えています。
「体型は努力で変われるのだから、太っている人は痩せなくてはいけない」というのも間違っている。「他人の見た目について誰かが強制することはいけない」とプラスして言ったほうがいいかなと思います。
どんな努力も他人に強いてはいけない。他人の容姿を変えようとする行為、もっと言えば、視線を向けるだけでも暴力なんだという認識をみんなが持った方がよいと思います。
矢吹:たしかに、揶揄すること自体が他人に変わることを要求していることになりますよね。それは暴力と同じ。校則だから髪を切れとか、染めろとか……とても暴力的な話です。
山崎:そうなんです。勉強や趣味など、努力を他のことに向けたい人だっていっぱいいるはず。人生は短いから、自分の見た目を改善すること以外に時間を割きたい人が気持ちよく生きられるような環境であってほしい。「あれもこれも直さなきゃ」と、ビジュアルのことばかりにとらわれてほしくないんです。
「ブス」という言葉をタブー視する前に、すべきこととは
ーー他人の容姿を揶揄してはいけない、というお考えながらも、山崎さんは「ブス」という言葉そのものをタブー視することについては間違っているのでは?と著書でつづっています。
山崎:私が作家としてデビューした15年前、メディアで見かけるのは容姿が良い人ばかりで、そうではないのはお笑い芸人の方ばかりだったと記憶しています。
だから、私が顔を出してメディアに出たときに「なんでこんな“ブス”が目立つところに出るのか」といった誹謗中傷を受けました。
山崎:当時、そのことを周りに話すと「“ブス”なんて言葉を言っちゃダメ」と言われ、相談することさえ許されない雰囲気でした。言葉狩りをされている気分でしたね。
でも、「ブス」という言葉をタブー視してしまうと、議論することさえできなくなってしまう。「他人に“ブス”と言うことについて」「“ブス”が悪いのか、社会が悪いのか」……「“ブス”とは」って、言葉にしてちゃんと議論したいじゃないですか。
矢吹:山崎さんがおっしゃるように、問題が解決されていないのに、言葉だけをなくそうというのは、順番が逆なんですよね。
たとえば差別に関する社会運動をしている人たちに対して「あなた方がそうやって強調するから、むしろ目立って差別が助長されてしまう」というような意見を持つ人がいますよね。
でも、差別をなくした後に、言葉をなくせばいいんです。言葉をなくしたからって、差別は残ってしまうのですから。
だから、「ブス」という言葉にしても、容姿差別がなくなれば、その言葉が必要なくなって、勝手に消えていくはずで、議論し尽くして、社会から差別問題をなくすことが、何よりも先なんです。
保護者自身の「美の価値観」が間違っていないか問うてみる
――社会の差別をなくす、といったことを考えるとなんだか壮大な感じがしてしまいます。自分たち保護者にできるのだろうか、と。
山崎:まずできることとしては、自分も差別の加害者だという自覚を持つことです。私自身、自分の中にある差別意識に気づくことがよくあります。差別をしない完璧な人間には死ぬまでなれないと思います。反省するのが大事かなと思っています。注意ができますから。
矢吹:自分たちが持っている、その美の価値観は、いつのものなの?と自分に問うてみること。「美しさ」は移り変わっていくものなんですよ。
たとえば、僕が大学の授業で今の学生に「コギャル」とか「アムラー」と言ってもポカーンとします。でも、当時はあれが“美の最先端”だったわけです。
かわいいの価値観はどんどん変わっていくことを理解し、そんな風に時代とともに移り変わる価値観を他人に押し付けていないかと思い返してみるのもいいのかなと思います。
山崎:女優の安藤サクラさんが、ご自身が一重まぶたで、娘さんも一重だから、「彼女がティーンエイジャーになるころまでにこの顔を流行らせる」と娘さんにメッセージを送っていたのがすごくかっこいいなぁと思いました。社会を変えればいいのだと。
矢吹:社会の空気を変えるって、時間はかかるかもしれないけど、できることだと思います。
僕の通った小学校は特別支援学級の伝統校のような学校で、30年近く前ですが、すでに「他人の見た目について揶揄してはいけない」ということをものすごくしっかりと生徒たちが共通認識として持てていました。
痣のある女の子とか、腕にケロイドがある女の子とか、義眼の男の子、分厚い眼鏡の男の子とかいろんな人がいて。だけど、彼らの見た目には触れてはいけないとみんながわかっていました。
もちろん、普通の小学校のようにイジメなどはそれなりにあったのですが、それらは容姿からくるものではなかったんですね。
矢吹:人と違うからといって、腫れ物として扱う必要はないけれど、当然否定的な言葉もかけてはならない。
ハンディキャップや問題を抱えている当事者たちが変わらなきゃいけないんじゃなくて、彼らも当たり前のように生きていて、サポートが必要な時には手を貸しながらも、普通に、普通にでいいんだと社会が認知すれば、もっとそういった人たちが生きやすくなる日がくるはずなんです。
――自分の子どもが実際に「目を二重にしたい」などと言ってきたときに、「価値観は変わりつつあるんだ」「寛容な親でいたい」といったいろんな葛藤がありつつも、内心割り切れない思いを抱いたりします。保護者の視点から、山崎さんはどうお考えになりますか?
山崎:10代のうちは判断力が幼いですし、親から見て必要と感じられない整形にお金を出すことはまずしないと思います。
ただ、「どんな顔を素敵だと思うか、どんなファッションが好きか」という子どものセンスに親は踏み込めないはずです。親には理解できないファッションを好きになっていくに違いないですし、センスや考え方に口は出すつもりはないです。でも、手術となると、本人の考えが成長と共にまた変化しても、後から戻すことなどが難しいですしね。
矢吹:もとに戻せないことに関しては、慎重になっていいと思います。
成長で変化していく肉体にメスをいれるというのは基本的にはリスクのあることなので、「私のルッキズムを子どもに押し付けている」といった考えとは切り離して判断した方がいいと思います。
他者からの「良い評価」も自信につながるわけではないと知る
──改めて、ルッキズムがまだまだ根強く残る社会で子どもを育てていく上で、保護者ができることはなんだと思いますか?
山崎:バタフライ効果という言葉がありますが、さざ波も大きな波につながることがあります。幼稚園や保育園、学校、会社の中での雑談、SNSでの小さなつぶやき、ふだんの家族の中での会話の積み重ねも社会作りだと思います。
矢吹:ひとりでできることってそんなにたくさんはないんですけど、そこに絶望しなくていい。小さなことで、いっぱいできることはあるのかなって。
僕は見た目問題を研究していることもあって、「さまざまな見た目の人がいることが当たり前になればいいな」と思います。その辺を歩いていて、すれ違っても誰もめずらしいと思わない。いちいち振り返って二度見しなくても、誰もが当たり前にいる社会。
そしてそんなさまざまな見た目の人々が、良くも悪くも注目されず、評価に影響されない、今の子どもたちにはそんな社会の一員になっていってほしいです。
山崎:本当にそうですね。そして、お子さんが社会に出たとき容姿について低い評価をされるんじゃないかと恐れている親御さんにとりあえず伝えたいのは、「たとえ高い評価を得ても自信にはつながらない」ということ。
社会的に「美しい」と言われる方々が自信を持って堂々と生きているかというと、案外そうでもなかったりする。結局、評価って人によってバラバラだし、他人の言葉に頼って自信を持つのは難しいんですよ。
だから「あの人にこんなことを言われたから直さなくてはいけない」というように他者からの高評価を目的に努力するより、勉強でも趣味でもオシャレでもなんでも良いから自分自身がやりたい努力をコツコツしていく方が「私は生きていていいんだ」と思える道につながっていると思います。
他人の評価は自分を幸せにしてくれない。最終的に子どもが「生きているだけで自分はすごいんだ」と思ってくれるようになるといいですよね。
<取材・執筆>KIDSNA編集部
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