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「みんなちがってみんないい」は間違い?【親子で学ぶ差別/後編】
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親子で「差別」について考える新連載。コミックエッセイストのハラユキさんといっしょに、さまざまな専門家の方々に疑問を投げかけ、子どもへの伝え方を学んでいきます。第1回は、哲学者の苫野一徳さんが登場します。
▼▼▼この記事の前編はこちら▼▼▼
なぜ「差別がだめなのか」を納得するには?
お子さんと対話をする前に知っておいてほしいのが、そもそも「なぜ差別はいけないことなのか」ということです。
宗教が違えば殺して当然。人種が違えば奴隷にして当たり前。身分が違えば同じ人間と思わない。今考えると恐ろしいことですが、250年~300年くらい前まで、人間はこうした感受性を持っていました。今私たちがそれを野蛮だと感じることは、長い歴史からみればとんでもなく革命的なことです。
なぜそれが可能になったかというと、まず第一には「みんな対等に同じ存在である」という考えを、長い時間をかけて、ルソーやヘーゲルといった哲学者が生み出し、民主主義社会をつくってきたからです。
みなさんも、「差別はいけないことだ」と頭では分かっているはずです。しかし、それがなぜダメなのかは、この人類の歴史を考えるとより深く理解できると思います。
我々人類は、人種が違っていたら、身分や宗教が違っていたら殺されていたかもしれない。そんな時代に戻りたくないのであれば、私たちはお互いを対等な存在として認め合う必要があります。
誰も差別をせずに、みんな自由に生きたい。だけど自分の自由だけを主張していたら争いになってしまうから、「自分が自由でいるために他者の自由も認めよう」と。これを自由の相互承認といいます。
この話は、小学1年生の子どもに話しても、きちんと理解して納得してくれるんですよ。きれいごとではなく、こうした「原理原則」を根拠を持って伝えることが、学校の先生にも、親にも必要だと思います。
子どもにも意見を求めることから、対話が始まる
こうした哲学的な対話を子どもと行う場合、注意したいことがいくつかあります。
決して容易なことではないのですが、ひとつは大人が好き嫌いの感情だけでなく根拠もあわせて伝えること。そしてもうひとつは、自分の考えを口に出す時に、「私はこう考えるけど、あなたはどう考えるのかを聞かせて」というやりとりをすることです。
前編でもお話したように、子どもは親から大きな影響を受けます。だからこそ、いつでも親に同調しておけばいいというわけではなく、自分の考えを求めていることが子どもに伝わるコミュニケーションをしてみましょう。それが、考える力を育み、ひいては対話する力につながっていきます。
「みんなちがってみんないい」は間違い!?
差別の問題を考えるとき、多様な人々を受け入れるつもりで「みんなちがって、みんないい」という言葉を使うこともあります。
詩人の金子みすゞさんの代表作の一部分で、これ自体はとてもよい詩です。しかし、一方で使われ方によっては哲学的に大きな問題を孕んでもいます。
社会の中で、私たちは何を考えても、何をしても自由だけれど、同時に、他者の自由を侵害してはいけない「自由の相互承認」という原理原則のルールがあると最初にお伝えしましたね。
このルールのように、これまで人類は、言論と思考にもとづく理性的な対話を通して、何がよくて何がよくないのかの共通了解を取り合ってきました。
しかしここで「みんなちがって、みんないい」を適用してしまうと、「自分が自由でいるために、他者の自由を損害する」といったような暴力的なものを許すことにもなり得てしまい、批判する根拠を失ってしまうのです。
つまり、「何をもって人の自由を侵害したか」に絶対の基準があるわけではなくて、対話で決めていくしかないのです。だからこそ、常に「この場合って本当に他者の自由を侵害しないって言えるのかな」と話し合ったり、考える経験を子どものころから積んでおくことが大事です。
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苫野一徳
哲学者・教育学者。熊本大学教育学部准教授。
著書に、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)『子どもの頃から哲学者』(大和書房)『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)『「学校」をつくり直す』(河出新書)『愛』(講談社現代新書)などがある。
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<漫画>ハラユキ
<取材>ハラユキ、KIDSNA編集部
<執筆>KIDSNA編集部