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忙しすぎる子どもが無意識に失っている「問い」とは【後編】
IQや学校のテストのように数値化できる認知能力に対し、数値化しにくく、人間力や生きる力とも呼ばれる「非認知能力」。幼児教育の分野で注目を集めるこの能力は、どのように身に付けていけばよいのだろうか?第2回目は、昨年12月に『探究する学びをつくるー社会とつながるプロジェクト型学習』を上梓した一般社団法人 こたえのない学校代表理事の 藤原さとさんに話を聞いた。
こたえのない学校で、小学校や幼稚園・保育園、学童などの先生たちに「探究する学び」のつくりかたを伝えている藤原さとさん。
前編では、探究とは自分で意味を構築することであり、「あなたらしさ」に探究が宿るということを聞いてきました。
ここからは、大人が子どもにどんな「問い」を立てるべきかについて聞いていきます。
幼児期は「問いを持つ快感に慣れさせる」
――親として、ふだんから子どもに「良い問い」、つまり本質的な問いができているか不安です。
私は「本質的な問い」という言葉にひっかかりを感じます。
ふだん、私たちは潜在的に、無意識的に「問い」をたくさん抱えて生きています。たとえば「生きるとは何か?」という問いを四六時中考えている人は少ないと思いますが、誰かの話を聞いたり、映画を見たり、生き物の生死に触れるといった経験に出会うことで、この「生きるとは何か?」という問いが立ち現れてくるのではないでしょうか。
「なぜお腹が空くのか」「今日、気分が乗らないのはなぜだろう?」といった疑問だって、専門分野においては立派な論文になる問いです。
だから、保護者も先生も何が素敵な質問か、どれが良い質問で悪い質問かなんて判断できるはずがないのです。
どこかの教育書に載っているような「本質的な問い」の定義に当てはまらないからと言って、子どもの疑問を切り捨ててはいけません。子どもの数多の問いを潰すのではなく、問いを持つことに快感を覚えてもらうことの方が重要です。
「問い」はいくらでも育てられます。
問いを持つということは、自分なりの答えに至るまでにモヤモヤするということ。そのモヤモヤにこそ意味があり、モヤモヤする感情に耐性を持たせることが大事です。
少しヒントをお伝えしましょう。
2020年4月から新学習指導要領の導入が順次進んでおり、そこで「探究」という言葉にも焦点が当たっていますが、私は学校教育と日々の家庭における探究は、分けて考えてみてもいいと思っています。
最大の違いは、時間制限の有無です。
学校では、総合的な学習の時間は70時間まで、など制約条件にどうしても縛られます。なので、その中で問いをいつまでに固めよう、どういうアウトプットにして、どう評価しよう、というプレッシャーにさらされます。
でも、家庭においては、時間割で区切られることもないし、提出期限もありません。3歳に思いついた問いを抱えて、30歳を過ぎてから研究を始めてもいいのです。そういった意味で、安易に答えを与えるのではなく、存分にモヤモヤさせてあげてほしいです。
すぐに応えず「仮説」を話すことが探究につながる
――子どもにとっては家での時間も十分にあるのに、親が忙しいと子どもの質問にすぐに応えを教えてあげたくなってしまいます……。
3歳くらいになると、「あれは何?これは何?」と子どもの質問が増えてくる頃。そのときに「あれはモンシロチョウよ」「これはたんぽぽよ」と即答してしまうと、子どもはモヤモヤすることへの耐性がなくなってしまう。
なので、「あれは何?」と聞かれたら、「へー、なんだろうね」「ほんとだね、不思議だね」とすぐに答えを教えず、いっしょに共感したり考える姿勢でいるとよいと思います。そうすると子どもは自分の問いを大事にし、不思議であることを楽しめるようになりますから。
子どもは時に、普遍的で大きな問いを持つことがあります。それは宇宙についてや、生や死についての問いかもしれません。その時にひるんでしまったり、中途半端に答えようとするのではなく、いっしょにその問いを楽しむのです。
たとえば子どもが月の満ち欠けについて問いを持ったのならば、図鑑などを見せてなんとなくわかったような気にさせるよりは、いっしょに月を見に行くといいと思います。
娘が小さいころは“カセツごっこ”というものをやっていました。たとえば、月の満ち欠けについてだったら、「月の形が毎日変わっていくのはなぜだろうね?」「あの光はなんだろう?」「こういう理由じゃないかな?」と、“カセツ”を出しあっていました。それは時に科学的でもあったし、時には物語のようにもなります。
保護者のみなさんに忘れてほしくないことは、子どもはいろいろなものを見ている。大人の方が見えていないものが多いということ。
大人の目線はベクトルが定まってしまっていることが多いです。
「これが正しい」「これが優れている」という方向性がある程度定まっています。たとえば、ピアノの練習をしていたとしても、を楽譜通りに弾けることが目標であり褒められるべきことだ、と決めつけてしまいます。
本当はピアノの練習が嫌だけどがんばっているかもしれないし、楽譜通りではなくアレンジして弾くことに楽しさを見出しているかもしれません。音の響きを純粋に楽しんでいるかもしれません。でも、大人は自分に見えていないからといって、子どもの中で起こっている大事なことを置き去りにしがちです。
仕上がりだけを見て、その他のことをすべて横に置き捨てるのではなく、その過程においても子どものいいところを探して褒めてほしいと思います。
忙しすぎる現代の子どもには機会よりも余白を
――最近は、子どもたちも学校以外に塾や習い事で多忙です。親子の対話も少なくなっているようにも感じます。
現在はコロナの影響や、教員研修に集中していることもあり、「こたえのない学校」での小学生向けプログラムは不定期にしか開催していないのですが、定期開催していたころ、プログラム開始前から疲れている子どもたちが多い、と感じていました。
塾の宿題を終わらせてきたり、他の習い事の後だったり、子どもたちのスケジュールはいっぱいです。
そういう子どもは、「(大人が)何かしてくれるんだよね」という姿勢があり受動的。意欲の有無の問題ではなく、やることが多すぎて疲れているんですよね。
「何かをやりたい!」と思うためには、それなりのフリータイムがあったほうがいい。保護者としては、子どもが何もしていないと不安に思うかもしれませんし、何もしない時間が増える分だけ保護者が対応しなければならないと思ってしまうことも多くなるかもしれません。
だけど子どもは習い事よりも、保護者とお喋りする時間や、公園に行っていっしょに遊ぶ時間、ひとりでぼーっとする時間を望んでいるかもしれません。子どもは自分の気持ちをうまく言葉で伝えられません。親の気持ちを汲んでしまうことも多い。子どもの心の声に耳を傾けてみてください。
――子どもにいろいろなことを感じてほしいと思うがゆえに、たくさんの体験機会を用意したいと思う保護者は多いかもしれません。
先の世の中がどうなっていくか見通しの立たない今の時代。
そんな中、怖れ、あるいはコンプレックスから子どもへの教育が加速している気がしています。私もそうかもしれませんが、見えないうちに焦ってしまうのですよね。
しかし、与えたら与えた分だけ子どもが成長するかというと、そうでもないかもしれません。今の子どもたちは、お腹が空いていないのに、目の前にたくさんの食べ物がある状態。自分が興味を持つ以前に、上からどんどん目新しいものが降ってくる状態なんですね。
いろいろな刺激が強すぎて、日常の中に潜むちょっとした違いを見つけられなくなっているのではないでしょうか。
そろそろ引き算をして、手放してみてもいいのかな、と思います。それよりも日々の生活を大事にして日常を深める。料理、掃除、買い物、散歩、何でもいいのですが、生活を深めることで気付くことがあると思います。