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「困った子」は「困っている子」僕が叩いてしまう子を否定しないワケ
子どもも大人もしんどくない保育を目指す、放課後児童支援員・きしもとたかひろさんに、学童期の子どもたちの変化と、関わり方についてお聞きした前回。今回は、きしもとさん自身の子ども時代のお話から、子どもたちと関わる際大切にしている視点についてお聞きします。
漫画が主体の『怒りたくて怒ってるわけちゃうのになぁ』を1月に出版し、今年秋にエッセイ『大人になってもできないことだらけです』が(KADOKAWA)から発売になった、放課後児童支援員のきしもとたかひろさん。
前回は小学校という大きな環境の変化の中で、未就学期と学童期での子どもたちの変化と、その受け止め方についてお話を伺った。
今回は「正解はひとつではない」「人自身を絶対に否定しない」というきしもとさんの視点と、子どもたちとのかかわり方、そして子育てが楽になるための考え方についてお聞きしていく。
子どもを変えるのではなく、楽になってほしい
ーーつい手が出てしまう子や、癇癪を起こすお子さんに対し、就学後が不安という保護者の声がありますが、そういった子どもたちとの接し方のコツはありますか?
きしもとたかひろさん(以下:きしもとさん):実は、僕も保育についてあまり知らない頃は、とにかく「手を出すことは悪い」「それだけは許さへん」と厳しく怒っていたんです。癇癪を起こす子にも「迷惑になるからこっちに来て」と言ってしまっていました。
今は、叩いてしまう子がいたら、まずはその子自身を絶対に否定しないことを徹底しています。(前提として叩かれた子の安全を確保した上で行います)
その子は、叩きたくてみんなを叩いているわけじゃなく、自分ではどうしようもできない理由があって叩いてしまうだけだと考えるようにします。叩いてしまう行為は絶対に肯定できませんが、「叩いてしまうんやな」「怒ってへんから1回落ち着いてくれ」と、まずその子の思いを受け止め肯定します。
「甘い」と言われるかもしれませんが、後にその子が手を出さなくなるために必要な過程だと思っています。
誰かを傷つける行為は許せないから止めないといけないし、でもあなたがしんどくてつらくて叩いてしまったことを理解したいから、叩かないでいいようにどうにか止めたいねんと。
もちろん1回でなくなるものではないので、「叩きたくなったら代わりにきしもん(僕)を叩きにおいで」とか「怒鳴るのは怖かったけど叩くのは我慢できたね」とか、「物に当たるまでは一旦OKにしてみようか」など、少しユーモアを交えながら、この子が前向きにその行動をしなくていいような段階を踏んでいきます。
ちょっとでも我慢できたことを一歩ずつ積み重ねて、自分でイライラを解消する方法を見つけるための関わりをしていけたらと思っています。
ーー大人の関わり方次第で、子どもはよくも悪くも変わっていくのだろうなと思うと、プレッシャーも感じます。
きしもとさん:そのプレッシャーは僕も感じることがあります。なので、その子を変えようという感覚は、持たないようにしています。変えたいというより、「楽になってほしい」「しんどさを減らしたい」と考えるようにします。変えるのではなく支援するのが僕たちの役割だと。
叩かなくても、そのしんどさや湧き出てくるものがなくなるような関わり方がしたいなと思っています。
きしもとさん:学校で暴力やいじめをした子に対して「人間として終わり」と追い詰めたり、「逮捕したらいい」という論調もあります。ある側面では正しいのかもしれないですが、僕は彼らを排除しないことを大事にしたいんです。
暴力はいけないということと、被害者を守ることは絶対に譲れない大前提です。その上で、その子が社会で排除されずに生きていく支援をすることも僕たち大人の役割だと思っています。それは、叩きそうになったときに「我慢やで」と応援するように止めたり、「叩きたくなったらこっちおいで」と寄り添うような、その子を受容する関わりから始まると思っています。
「代わりに自分を叩いてもいい」という提案は、「大人になら暴力をしていい」という学習に繋がるのではないかという不安もあるので、それを良しとするという意味ではなく、目的は、「あなたが我慢するために力になるよ、代わりにこっちも一つ折れる」「あなたの味方だと証明するために間に入るという感覚」が伝わることです。
なので、その子との対話の中で冗談のようにそういった会話もあると捉えていただけたらと思います。
そんな関わりを繰り返していく中で、その子が手が出そうな衝動を抑えられたときに、「見てた?」「我慢したったぞ」とうれしそうな感じで僕の方を見てくることがあるんです。それだけでその子は、「我慢できた」という成功体験をひとつ積み重ねてますし、その子にとっての僕は、注意してくる人ではなく見守ってくれている人になっていっているように感じるんです。
否定され続けると「どうせ俺は殴る人間」「また俺が悪いんやろ」となってしまいがちなので、「あなたは殴らないという選択も選べる」ということを知ってもらいたい。
怒りやいらだちを鎮めたりすっきりしたりする場所や方法や、それを助けようとしてくれる人がいるということを知っておくことで、叩くことを回避できるということを、知識としてではなく、体験として感じてほしいんですよ。
「一瞬にして子どもを変える」魔法のような関わりはない
ーーきしもとさんの本には、「死ね」などきつい言葉を使ってしまうのも、感情を表すためのいろんな言葉を知らないから、という話がありましたが、ストレスを発散する方法も、大人はいろんな方法があるけど、子どもはまだ方法が限られているから、泣きわめいたり手を出したりするしかないんでしょうね。
きしもとさん:まだ衝動的にやってしまう未成熟な部分もあるし、それ以外の方法を知らないということもある。なので「その場で一瞬にしてその子を変える」みたいな関わりはないんです。一瞬でなくそうとすると、排除か縛り付けるぐらいしかなくて。もちろん、制止するためにそれをする場面もあるかもしれませんが、それはあくまでもやむを得ないことだと思っています。
実際に被害を受けている子どもやその親御さんからすれば「なぜ殴る子を擁護するのか」と感じるだろうし、一生消えない傷を抱えて苦しんでいる人たちも実際にいます。
何度も言いますが、真っ先に考えなければいけないのは被害が起きないようにすることと被害者を守ることです。
その上で加害側の子の人格まで否定はせず、排除しない方法を考えたい。
児童福祉というのは、仮に10人の子どもがいたら、「5人が幸せになっては聖人、5人は悪人だからに不幸せになってもいい」というものではありません。
「どんな環境で生まれてもどんな性格であっても10人全員が幸せになれる」方法を考えることが必要になってきます。
「すでに被害を受けているのだからそんなのは理想論だ」と言われたらそうですが、必要なのは加害者を懲らしめることではなく、被害を受けたり加害をしたりする子が減ることだということを忘れてはいけないと思っています。
ーー学校ではどうしても「問題がある」とされている子たちを排除する動きがあるのも事実ですよね。長い目で見れば、問題のある子たちにも寄り添ってあげることが、結果的には社会にとってもよいことなんだとあらためて実感できました。
きしもとさん:排除されたり人格否定されたりすると「自分はこの場に居るべき人間じゃないんだ」とどんどん心が削られていくんです。削れた自尊心とか欠けた部分を全て修復はできなくても、一人でも認めてくれたり、ちょっと埋めてくれる存在は、その子にとって大きいと僕は思います。
劇的に変わらなくてもいいし、変えようとしなくてもいいと思っています。その子が受け入れてもらえているという感覚を持ちながら、その問題と言われる行動を選ばないで生活していけるように支援していくことが大切だと思っています。
たいていのことは「わが子じゃなかったら笑える」
ーーとはいえ、「死ね!」などの攻撃的な言葉を聞くと、条件反射的につい怒ってしまいます。暴言をなくしていくにはどうすればよいでしょう?
きしもとさん:攻撃的な言葉を言ってしまうのは成長していく過程では通る道ですよね。大人もこっそり呟いたりしていますし、ある程度仕方ないと思います。ただ、「私は聞いていて気分が悪くなるよ」「それを誰かに向けたり、誰かがいる前で言って欲しくないよ」という自分の思いを伝えるようにはしています。
余裕があれば「じゃあ箱を用意してそこに叫んでみる?」「別の言葉にしてみたら?」など、これも、正しい方法というよりは、その行動を選ばなくていいような方法を一緒に見つけていくように代替案を伝えます。
もちろん、余裕がなくて怒ってしまっても「失敗した」と落ち込まなくていいと思うようにしています。
「つい怒りすぎてしまう」という悩みについてよく提案させてもらうのは、事前に「怒らなくていいルール」を自分の中で作ってみること。たとえば、「このゲームをしているときだけは“その言葉”を使っていいことにする」とか、「トイレの中だけはその言葉を使ってもいいことにしよう」とか。
根拠とかなくていいから、怒らなきゃいけないとしていることをいくつか降ろしてみるんです。
子どものことは関係なく自分ルールとして、怒るのは1日3回までにして、3回を超えたら、散らかっていても、宿題をしていなくても怒らないでいいことにしようとか、帰宅後は毎日30分勉強するルールだけど、金曜日だけはお菓子を食べたあとでもいいことにしてみるとか、なんでもいいと思います。
これは、「怒りすぎちゃダメだよ」と自分を追い詰めるものではなく、「怒らなくて大丈夫」と怒らないことを自分に許可する感じです。
ルールが正しいかどうかや、例外を作っちゃいけないんじゃないかとかは一旦置いておいて、自分の中で「オッケー」を出せる部分をいくつか作っておく。そうすることで、意識的に余裕を生み出すんです。
ーーきしもとさんのように、子供の行動を面白がることができればもっと子育てが楽になるだろうなと思うのですが、分かっていても怒ってしまうと思うので、コツがあれば教えてください。
きしもとさん:誰しもわが子のことになると客観的に見るのは難しいですよね。でも、だからこそ、「これ、わが子じゃない子がやってたら笑えるんちゃう?」という視点を持つと、自分の中におもしろがる余裕が生まれて、ちょっと立ち止まることができるんじゃないかなと思います。それができないから難しいんですけどね。
でも、瞬間的に怒ってしまうことがあってもいいと思うんですよ。だってそれが生活だし、生活って「正しい子育ての形を積み重ねていく」ものじゃないと思うから。
寝不足だったり、疲れていたりすれば、誰でもイライラするし、もしそれで子どもに怒ってしまったら、「ごめんな、ちょっとイライラしてたわ」と素直に謝ればいい。もちろんこれも人間関係なので許してもらえるかは相手次第なので「謝ったやんか!」と開き直ることがないようには気をつけています。
ひとつずつを「生活」として見て、あえて「子育て」に結びつけないことも大事だと思います。全部子育てに繋げようとするから、自分がイライラして怒ったことも正当化して、「あなたのためを思って怒ってる」となってしまう。
「ありがとう」「ごめんね」を言わせるか否か論争も、「教育のため」じゃなく、シンプルに、「私があなたにしてあげて、されて、黙ってられるのが嫌だから私にはありがとう、ごめんねって言ってほしい」でいいんじゃないかなと思っています。
曲がったことは許せない、正義マンだった子ども時代
ーーきしもとさんご自身は、幼少期どんなお子さんだったのでしょうか。
きしもとさん:実は、子ども時代の僕は、周りから見たら息苦しいくらい真面目で、クラスでなにか問題が起きたら「話し合おうぜ!」と言い出すような、いわゆる学級委員タイプで、「正義マン」と揶揄されたりしていました。
「曲がったことはせんように」と言われて育ったからかもしれません。
一方で、抜けていたりズボラな面もあって、そんな自分への劣等感から過剰に「ちゃんとしてない人を許せない」部分が強かったのかもしれないと最近になって思ってます。
今の自分の性格がその頃のままとは思いませんが、今でも自分の中に「正しいことは正しくあるべき」という部分があるのを感じると、ちょっと怖く感じます。
だから、根っから穏やかな性格というわけではなく、正義を振りかざさないよう意識しているし、子どもと接するときは、とくに「正義マン」の自分は出さないようにしています。
ここ数年は、なんとなく自分ができないことを受け入れられたり、できなかったことができるようになったりしたことで、余裕が生まれてきたので、できていない人を責めることも減ってきました。
ーーTwitterで見る「きしもとたかひろ」さんはとてもおだやかなので、すごく意外です。
きしもとさん:葛藤はしつつも、とくにTwitterでは、客観的な視点を持つよう意識して、冷静なスタンスを取るようにしています。
子供だけじゃなくて、大人も、高齢者も、若者も、全員に等しく権利、人権はある。
だから、どんなに話が通じなくても、めちゃくちゃなことを言ってこられても、まずは相手を否定せず、「その人がそういう風に考える背景があるかもしれない」と思って踏みとどまります。
ーーきしもとさんには、「正解はひとつではなく、こっちの視点もあるかもしれないし、こっちの視点もあるかもしれない」という考え方が根本にありますよね。
きしもとさん:子ども時代正義マンだったからこそ、正解はひとつじゃないと思えるようになったら本当に楽になったんですよね。
相手の考えが自分の意見と違ったときは、「答えがふたつになってラッキー」ぐらいの気持ちで受け止めます。
子育てのハウツーなんかも、正しい方法としてではなく、数ある方法のひとつと思えれば、「自分はできてない」とへこむことも減るかなと思います。
困った子は困っている子
ーー子どもだけでなく、全人類に対して、きしもとさんのように寛容になれたら……と思いました。
きしもとさん:「問題がある」といわれる子は、その子自身や家庭に問題があると思われがちですが、僕は、その子と社会との間の接点がうまくかみ合わず、軋轢が生まれるという感覚なんです。
たとえば、その子が三角で社会は丸だとしたら、絶対にハマらないですよね。そこで排除ではなく、かみあうような形に双方が変化していく、それがその子が育つということであり、その子が生きていく社会や環境を作るという考え方だと思います。
保育の現場での支援では、周りから「困った子やな」と言われている子は、「本当はその子が困っている」という見方をします。
「問題児」と言われる子も、その子自体や人格に問題があるんじゃなく、その子と社会との接続点、もしくは社会に問題があると考えると見え方が変わってきます。
たとえば、過剰なストレスなど殴る原因を多少なりとも社会が作っているのなら、社会の側もその子に合わせて変わる必要があります。両方がうまくかみ合うように、その子の能力と環境を調整していくことも支援の一つなんです。
そのためにも、まずは子どもが「ここに行きたいから来る」場所というより、「ここにいていいんやな」と思える場所、自尊心を守れる場所を作る必要があって、それが僕が学童保育でいちばん大切にしたい部分ですね。
<取材・執筆>KIDSNA STYLE編集部