【スポーツ王の育て方】鈴木尚広 ~代走のスペシャリスト 球界史上最高の盗塁成功率を記録した俊足プレイヤー

【スポーツ王の育て方】鈴木尚広 ~代走のスペシャリスト 球界史上最高の盗塁成功率を記録した俊足プレイヤー

KIDSNA編集部の連載企画『スポーツ王の育て方』。#02は鈴木尚広氏にインタビュー。「代走のスペシャリスト」と呼ばれ、2019年には読売ジャイアンツ(巨人)の外野守備走塁コーチに就任する彼は、どのような教育を受け、どのような想いを持ち突き進み、現在に至るのかを解明していく。

「野球を嫌いになる要素は省いてきた」
「弱者だからこそ成長できる」


こう語るのは、野球界トップクラスの俊足と磨き上げられた盗塁技術により「代走のスペシャリスト」と呼ばれた鈴木尚広氏(以下、敬称略)。

学生野球の選手だった父親の影響を受け、5歳から野球を始める。小中高と野球に勤しむも、甲子園強豪校への進学は望まなかった。無名の高校球児であったが、中学時代に陸上部と兼部するほどの快足に注目が集まり、1996年、ドラフト4位で読売ジャイアンツ(以下、巨人)に入団。

2001年、原辰徳監督のもと一軍に上がり、2003年から2009年まで7シーズン連続でチームトップの盗塁数を記録する。2008年にはゴールデングラブ賞、日本シリーズ優秀選手賞を受賞。

代走としての活躍が多く、通算228盗塁のうち代走で132盗塁を達成。2017年シーズン終了時点で史上最も高い盗塁成功率を記録した。

高い走塁・守備技術を持ち、2019年、巨人の外野守備走塁コーチに就任する彼は、自身を「弱者」であり「エリートではない」と語る。

彼が育ったベースには何があるのか。どのような教育を受け、どのような信念のもと「代走のスペシャリスト」と呼ばれるまでに至ったのかを解明していく。

野球は青春、体が反応するくらい好き

野球との出会いと続けるに至ったモチベーションについて聞いた。


きっかけは野球好きの父

ーー5歳から野球を続けられていますが、始めたきっかけとは?

スポーツ王の育て方_鈴木尚広_01

「当時は野球が盛んであり、父が学生時代に野球をやっていたことも要因としてあります。テレビをつければ野球中継が毎日放送されていて、見るものすべてが野球に関連していた。

父自身が叶えられなかったプロ野球選手の夢を私に託したい想いもあったと思います。遊び相手が父だったというくらい一緒に遊び、球場にもよく連れて行ってくれました。

知らず知らずのうちに野球に染まっていて、やることが当たり前でしたね」


上達できることに心が躍る

ーー野球部は厳しい規律やハードな練習がつきものかと思いますが、辞めたいと思ったことは?

「一度もないですね。

小中高と段階を経るごとにレベルも上がり、そこにはさらにレベルの高い選手がいる。自分にも上達できるチャンスがこの先たくさんあることに、とにかくワクワクしていました。

もちろん吐くほど練習はきつかったですが、その先に楽しいことが待っていると思っていました。

学生時代は本当に、野球が青春でしたね。体が勝手に反応してしまうくらい好きでした」

無意識のうちに野球を好きになった鈴木尚広氏だが、厳しい練習の先にプロとして活躍する己の姿をどこかに見出していたのかもしれない。

現役時代のマイルール

入団1年目は「骨折くん」と呼ばれるほど怪我が多く、体質改善を図り調整を続けた鈴木尚広氏。現在の立ち位置を確立するまでには、喪失、挫折、挑戦、諦めと、さまざまな想いを抱いてきたようだ。


続ける努力を自分に強要する

ーープロの世界を目の当たりにしたとき、学生野球とのレベルの差など衝撃は大きかったのでは?

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「受けた衝撃は想像以上。私はまるで赤子のようでしたね。初めて野球をする怖さを感じ、これが仕事にする、ということなのだと思いました。

不安はありながらもスカウトを受けて入団できたわけだから、認めてもらえている、自分ならできる、という想いも混在していました。

でも、そんな自信は一瞬のうちに、ろうそくの火のように消えてしまった」

ーー自信が消えた中で、どのような意識で続けられたのですか?

「自分に対して努力の継続を強いてきました。人と同じことをしていては人より上手くはなれず、才能があっても努力した人には追い付かれる。実力の世界では、続けた人には勝てないものです。

シーズンオフの過ごし方も非常に重要で、私は無休で練習しました。一歩でも二歩でも先輩たちに近づきたい、上手くなりたい。怪我の多い自分に対する歯がゆさもあり、なんとか自分に対する周りの見方を変えたいという想いは強かったです」


自分と勝負し続ける

ーー惰性に負けず継続するためのコツはありますか?

「努力を継続することは、自分との勝負です。自分に打ち勝たなければ相手と勝負することはできない。自分と向き合い突き詰めていかないと、プロ野球の大舞台には立てません。

『自分はこうだ!』と納得するまで続ける。それを貫いてきたからこそ、周りの方々が賛同し応援してくださったのだと思います」


これだけは負けない、強い想いが支えに

ーー一軍に上がるまでの5年間、ご自身が置かれている状況や日々の中でジレンマと戦うことがあったのでは?

「非常にありました。自分の力を出し切っても、簡単にねじ伏せられてしまう。何度走っても失敗し、動けない感覚になる。プロの世界では力が通用しないと気づいた時、喪失感を非常に感じましたね」

ーーその状態の中で、どのようにモチベーションを維持したのでしょうか?

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「心のどこかに、やれば上手くなるという想いもありました。プロに入ったのだから、必ずレベルアップできる。でも、自分が今いるのはずっと低いレベル。だから自分が納得できるところまでやっていこうと。

私の“決めたことをやり続ける”という習慣は、自分を信じる糧になりました。絶対に見返すぞという反骨心もありましたね。

足だけは絶対に負けない、自分は絶対にそこで生きていくんだ、という強い想いが自分を支えてくれたと思います。と同時に、この5年間が、自分を強くしてくれました」


諦める勇気を持つ

ーー代走として評価を得る一方、イチ野球選手としてレギュラーへの想いはどうだったのですか?

「諦めました」

ーー諦めた、、、大きな決断ですね。

「そこにこだわっていれば、私は野球界から消えていたでしょう。

2010年は結果を残せなかったにも関わらず、レギュラーで勝負したい、まだできるという想いを断ち切ることができずにいました。

国内FA権を取得したこともあり悩んだ結果、原監督に電話して『使ってもらえなければ巨人を出ます』と直談判しました。今思えば生意気ですね(笑)。

チャンスがほしい、それでも結果を残せなければ納得する旨を話したら『よし、わかった』と。その言葉どおり、原監督はシーズン開始からレギュラーのスタメンで使ってくれました。

しかし私は、結果を残せなかった。そこで割り切れたのです」

ーー自らアクションを起こしたからこそ、ケリをつけられたのですね。

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「あの時、原監督に自分の意思を告げなかったら、ずっとモヤモヤして、わだかまりができていたかもしれません。ですが、想いを言葉で伝えたことで監督も理解してくれた。そして約束を守りチャンスをくれた。

だからこそ、守備固め、代走であってもスムーズに移行できましたね。

諦めざるを得ない、ではなく、諦めた。

逆にそれがあったから、代走としてフォーカスされ、皆さんから評価してもらえた。プロ野球選手としては残念な結果かもしれませんが、これが転機となって新しい自分が作れたと思っています。

結果が出ないことによって、捨てる勇気を持てました」

ーー本当の自分の強みを見つけたのですね。

「代走にシフトチェンジした後は、走塁のことしか考えませんでしたね。コンマ何秒縮めるために、スタートの仕方や構え方、ボールの見方まで全てにこだわりました」

代走としての立場を受け入れてからも、出番に備えて誰よりも早く球場入りし、準備を整えていたという。試合に出場できたか否かの結果に捉われず、いつでも同じコンディションの自分でいることに重きを置いていたそうだ。

勝負の世界に身をおきながらも、決して結果だけに捉われない。そのポリシーはどのようなルーツを経て育ったのだろうか。

鈴木尚広ができるまでのルーツ

プロ野球選手を目指す球児の多くは、甲子園出場をかけて強豪校へ進学することを望むだろう。しかし鈴木尚広氏はその道を選ばなかった。そこには彼独自の、野球を続けるためのこだわりがあったようだ。


ワクワクするのは野球だけ

ーー幼い頃、野球以外に習い事などされていましたか?

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「塾には通っていました。小学校や中学校のときはバスケもサッカーもバレーボールもやりました。ただ私の性格上、ワクワクしないものは続かないんです。興味がないことにはまったく関心を持てない。何をやっても野球のようにワクワクしなかった。

ただ、中学校の時は野球部の顧問の先生が陸上部も兼任されていたこともあり、半ば強制的に陸上部も兼部していました。当時は嫌々やっていましたが、今ではよかったと思っています」


弱者だから成長できる

ーーその頃から俊足による、ずば抜けた存在感を放っていた結果、甲子園無出場にも関わらずスカウトを受けられたわけですね。

「なぜ私のところへスカウトに来るのか不思議で、少し引いた視点で見ていました。ただ、ドラフトにかかり巨人に入団してからは、一軍レギュラーとして活躍できる可能性がある、というところに意識は向かっていました」

ーー学生がスカウトを受けると浮足立ってしまいそうですが、いかがでしたか?

「それはなかったですね。自信満々だといつか慢心になって隙が生まれるので、それだけは持たないように常に気をつけています。

弱者は、何をすべきか考えその結果成長できますが、強者になると考えることを止めてしまう。でもずっと強者でいられるわけではないので、何事も、引いた視点で見るようにしています」


嫌な要素は排除する

ーーそもそも高校進学時、甲子園強豪校を選ばなかった理由は?

「伸び伸びと野球をやりたかったからですね(笑)。甲子園に行くために避けては通れない規律された生活や厳しい練習、対何百人との競争を好きになれず、野球を嫌いになる要素を省いた結果、甲子園強豪校には行きませんでした。

高校時代はとにかく楽しく野球ができる、試合に出れる、自分が上達できることしか考えていませんでした」

強くなりたい、という想いをもちながらも、楽しく没頭できる道を選んだからこそ力を発揮し、プロという道を切り開くことができたのかもしれない。

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俯瞰する力を与えてくれた両親の存在

子どもに自分の夢を託した親は、徹底したサポートをする場合が多いだろう。厳しい教えもあるかもしれない。

父親の夢を託された鈴木尚広氏は、どのような教育を受けてきたのだろうか。

ーーお父さまのプロへの夢を託されている中で、厳しい教えなどはありましたか?

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「父には褒められたことも怒られたことも、一度もありません。

ただ、調子が悪いと練習に付き合ってくれて、その後の試合では結果が残せる。いつも見てくれていることは感じていたし、常に私の状態を理解している人でした」

ーー結果を残せたときなど、褒めてほしいとは思いませんでしたか?

「思わなかったですね。父は私の性格を理解していて、軽い言葉で喜ばないことをわかっていたのだと思います。近からず、遠からず、適度な距離感を保ちながら見ている、という父のスタンスは、いつでも変わりませんでした」

ーーその距離感は、どのような意図で築かれていたと感じているのでしょう?

「私が自分で気づくべきことは気づけるように、きっかけを与えてくれていたのでしょうね。

現役を引退して初めて『よくやった』と言葉をかけてくれました。ただ母に聞いたところでは、日ごろからよく喜んでいたそうです(笑)。父親として、恥ずかしくて出せなかったのでしょうね。厳しくもあり、優しくもある人です」

仕事の休み時間も一緒に遊んでいた、と語るほど、幼い頃から父親と野球を楽しんでいた鈴木尚広氏。適度な距離で見守り続けた父の、“子どもの気づく力”を信じる教育方針により、プロ野球界でも決してめげない彼の強靭なメンタルと、走塁に欠かせない俯瞰する力が作られたのかもしれない。

指導者の立場に経つ今

現役を引退後、野球解説者として活動しながらも幼児向けの野球教室などを開催している。子どもたちへ伝えていきたい想いを聞いた。

ーー子どもたちに野球を教えるとき、心がけていることはありますか?

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「興味を持つ導入部分である“いかに楽しんでもらえるか”ということを一番に考えています。

いつの時代でも、何かを始めるときの入り口は楽しむことだと思います。ワクワクしながら始めて、ボールを遠くに飛ばせた、キャッチできた、というところから興味を持つ。同じ目線で一緒になって楽しみながら、自分と同じように無意識に好きになってくれたらいいなと思っています。

ただ、楽しみ方をどのように見せたらよいかは、日々悩みますね。伝えたいことがうまく伝わることもあれば、感じてもらえないことも当然ある。指導者というのは、その繰り返しだと思います」

鈴木尚広が思う「スポーツ王」とは

最後に、鈴木尚広氏が思う「スポーツ王」について聞いた。

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「原辰徳監督ですね。

原監督は、勝負に対してとても怖かった。勝ちに対する執着には並々ならぬものがあり、そこにこだわるからこそ、その意識がチームに広がっていったのだと思います。結果を出さないやつは使わない、とハッキリしていたので、常に競争であり慢心を作らせなかった。

全選手フェアであり、適材適所の選手を育てていく。

若い選手も必ず使い、モチベーションを落とさせない。全ての選手に必ずチャンスを与えてくれる。そして結果を出すのは自分自身、競争、それが一軍だということを見せてくれました」

ーー鈴木さんは代走のスペシャリストとして君臨されていましたが、プロ野球選手としてのご自身をどのように考えられていますか?

「私はエリートではありませんでした。失敗も挫折も非常に多かった。

でもそれによって『こんな経歴があってもこうなれる』『自分が貫いていけば道は必ずある』ということを伝えられる。マイナスから始まっているからこそ、親近感を感じてもらえるのではと思います」

ーーもう、ユニホームを着ることはないのでしょうか。

「それは僕が決められることではありませんし、それに見合う自分でいなきゃいけない。今回のこのお話で、2~3年待っていただければ(笑)」

編集後記

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鈴木尚広氏は、競争から離れた球児時代を過ごした後、日々競争となるプロ野球の世界へと進んだ。楽しかったことが苦しいものへと変わっても、物事を俯瞰する力、謙虚でいる大切さを持ち続け、代走というポジションで多くの実績を残し、ファンを魅了してきた。

インタビュー時には「2~3年後」と話していたものの、執筆時、2019年に鈴木尚広氏が再び巨人軍のユニホームを着るというニュースが入ってきた。コーチという新しいポジションでの彼の活躍も楽しみだ。


KIDSNA編集部

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2018年11月02日

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