信長の葬儀の「喪主」は三男信孝でも孫の三法師でもない…秀吉が「主君の死」を最大利用するため使った「隠し球」
「本能寺の変」発生前に和睦を決めていた「秀吉の強運」
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秀吉(池松壮亮)・秀長(仲野太賀)兄弟が主君・織田信長(小栗旬)亡き後、天下の覇権を握る様は2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)でも描かれる。歴史学者の黒田基樹さんは「秀吉は対抗する勢力を無視し、信長の葬儀を京都で大々的に行った」という――。 ※本稿は、黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
秀吉・秀長が備中攻めの最中、本能寺の変が
天正10年(1582)5月、秀吉は備中高松城を包囲しながら、織田信長の到着を待ちつつも、毛利家との和睦をすすめていた。条件は城将清水宗治むねはるの切腹と、領国(因幡・美作みまさか・伯耆ほうき・備中)の割譲であった。とはいえ実態は、伯耆(山陰)は半国、備中は足守川以東であった。しかも因幡・伯耆半国・備中足守川以東は、すでに秀吉の勢力下に置かれていた地域にあたっている。残る美作は、半国が宇喜多家領国になっていたから、実際に割譲されたのは、毛利方にあった美作半国だけというのが実情だった。

歌川芳艶画「高松城水責之図」[刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
そうしたなか6月2日に、織田家家老惟任これとう(明智)光秀による京都本能寺の変で、「天下人」織田信長とその嫡男で織田家当主の織田信忠が同時に戦死してしまった。その報は、3日の晩には得たとみられている。
すでに秀吉は、毛利家とは翌4日午前に和睦を成立させることを取り決めていた。秀吉は予定通りに和睦を成立させ、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景と起請文きしょうもんを交換した。そして惟任光秀討伐を図り、6日午後に陣を払い、8日に姫路城に帰還したとみられている。





























