女性ファンの日記を100万円で買い取ってリライト…太宰治の名作『斜陽』が爆誕した驚きの背景
静子の日記からパクった『斜陽』のキャッチコピー
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文豪の書いた名作はどのように生まれたか。太宰治は虚弱で文章を数多く書けなくなると、ファンである女性の日記を買い取ってリライトして世に出したという。そのあまりにえげつない逸話を、歴史エッセイストの堀江宏樹さんが書いた『文豪 不適切にもほどがある話』より紹介しよう――。 ※本稿は、堀江宏樹『文豪 不適切にもほどがある話』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
『斜陽』の裏にあった「エゲつないにもほどがある話」
終戦後は、太宰治だざいおさむの黄金時代となるはずでした。
日本は圧倒的な国力差があるアメリカに戦争を挑み、敗戦しました。戦後は旧来の価値観が転倒、文学の評価軸も一変したのです。
おかしい人間だからこそ、おかしくなってしまった世界を正確に捉え、表現できるのではないか……という期待が生まれ、「無頼派ぶらいは」太宰には執筆依頼が殺到し、この時期に『斜陽』、『人間失格』という太宰の代表作が次々と発表されました。
しかし、虚弱な太宰の行き詰まりはすぐにやってきました。
スタミナがなさすぎるのです。
現実を打開すべく、当時の太宰はエゲつないことをやりました。自分に惚ほれているファンの太田静子おおたしずこに手記を書かせ、それをパクって、ちょちょっとリライト、発表したのが不朽の名作とされる『斜陽』の内実でした。
静子と太宰の間の娘で、のちに作家となった太田治子はるこによると、太田家は華族ではないが「十数代医師を生業なりわいとしていた先祖」を持つお家柄。静子も富裕な医師の令嬢でしたが、父が早逝そうせいし、労働経験ゼロの静子と母は、神奈川県・下曽我しもそがの山荘で窮乏生活を送っていたのです(太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』)。
そして母さえ亡くした静子には、太宰こそ「自分の現在と将来を託せる唯一の人」(相馬正一『評伝太宰治 第3部』)という思いが生まれていました。
しかし、太宰からすれば静子は利用できる一人の女にすぎなかったのですね。
戦前の上流階級の没落が社会現象化していた当時、新潮社からの執筆依頼を受けた太宰は「没落階級の悲劇」(太田・前掲書)を『斜陽』という小説にまとめる! 大傑作にする! と吹聴しました。

























