米騒動で注目された政界のプリンスが「いきなり首相」に…大河「べらぼう」で松平定信が老中首座になれたワケ

米騒動で注目された政界のプリンスが「いきなり首相」に…大河「べらぼう」で松平定信が老中首座になれたワケ

定信が8代将軍吉宗の孫でも、この人事は異例だった

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では奥州白河藩主の松平定信(井上祐貴)が現在の総理大臣に当たる老中首座になりたいと野望をあらわにした。系図研究者の菊地浩之さんは「定信は徳川家のサラブレッドだが、幕閣での役職経験はなく、異例の人事だった」という――。

松平定信が首相に相当する「老中首座」に

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で松平定信(井上祐貴)が一橋家の徳川治済はるさだ(生田斗真)ら徳川一門の後押しで、老中首座ろうじゅうしゅざに就任する。

老中は複数人が任じられるが、そのうち財政担当の勝手掛かってがかり老中が老中首座と呼ばれ、老中筆頭として全体を束ねた。


定信「首座ならば、首座の老中であるならば、若輩でも徳川をお支えすることができるかもしれませぬ」
治済「そなたの言い分は分かるが、それはさすがに難しかろう」
定信「なんとかなりませぬか? 一橋様のお力で」(「べらぼう」第33話より)

定信は8代将軍・吉宗の孫、徳川御三卿・田安家の出身で、毛並みは良いが、老中としては新参者。奥州白河藩の松平家に養子として迎えられ、藩主となり、天明の大飢饉で打ち壊しが起こったときに「お救い米」を出し、脚光を浴びたが、まだ20代(29歳)の若僧でしかない。かたや老中は前の首座であった田沼意次おきつぐ(渡辺謙)の派閥が占拠しているので、「べらぼう」では定信が老中首座就任を要求した構図にしたのであろう。

さらに、両者の連携強化――というより妥協点として、天明7(1787)年6月13日、当主不在の田安徳川家に一橋徳川治済の5男・徳川斉匡なりまさを相続。その6日後に定信が老中首座に就任した。

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「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

今なら大臣、老中になるまでのキャリアパス

「べらぼう」でも描かれたように、田沼派の現役老中、松平康福(相島一之)、水野忠友(小松和重)が定信の老中就任については強硬に反対した。

建前としては「前例がない」「前例に背そむく」ということである。定信の老中就任は2つの点から極めて異例のことだった。1つめは前述の通り徳川一門が老中人事に介入した。2つめは親藩大名(将軍家の一門待遇)で老中に就任したことである。ただし、親藩大名で老中になった事例は定信が初めてではない。松平武元たけちか(石坂浩二)も親藩大名なのだ。そして、その武元でさえも通例に従い奏者番そうじゃばん・寺社奉行を経て老中に就任にしているのに比べ、定信はいきなり老中に就任している。

中学・高校の日本史の授業で、江戸幕府の組織・役職として、大老たいろう・老中・若年寄わかどしより・京都所司代・寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行・大目付あたりは習ったような気がするが、「奏者番」は習った覚えがない。

会社で社長になるには、ヒラ取締役(奏者番)からはじまって、常務、専務、副社長を経て社長(老中首座)になるのがスタンダードなのだが、松平定信も田沼意次も奏者番をすっとばして老中になっている。意次は社長の家の執事(側用人)が抜擢されたケース、定信は社長の従兄弟が優秀だから抜擢されたケースだ。

では、老中になるにはどういった役職を経験していくのが一般的なんだろうか。本稿では老中までのキャリアパスをたどっていきたい。

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2025.09.13

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