こんな美人画は見たことがない…神絵師・喜多川歌麿が苦節22年でブレイクした「女の肉声が聞こえるような絵」
同居までしていた蔦屋重三郎との蜜月はいつ終わったのか
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「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で染谷将太が演じる「神絵師」喜多川歌麿がブレイクしたのはいつか。『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の著者・増田晶文さんは「歌麿は1770年に絵師としてデビュー。蔦屋重三郎(横浜流星)と組み、1792年、豊満で妖艶な色香を漂わせる美人大首絵で一躍スターになった」という――。 ※本稿は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
42歳の蔦重は幕府のおとがめで財産半分没収
寛政に入ってからの蔦重(蔦屋重三郎)の動き、取り巻く情勢は風雲急を告げる。
天明7(1787)年から老中・松平定信による寛政の改革がスタート、蔦重はそれを黄表紙で痛烈にあげつらった。だが官憲の取り締まりは厳しさを増し、朋誠堂喜三二引退と恋川春町逝去(自死?)という痛恨の結果が残る。
寛政3(1791)年、42歳となった蔦重は財産半分没収の沙汰をうけ、山東京伝も手鎖の刑に処せられる。耕書堂の経済的損失はもとより、蔦重には京伝の創作意欲の減退が響いた。
蔦重はしばらく再印本でお茶を濁すしかなかった(その中には京伝と歌麿コンビの黄表紙『扇蟹目傘轆轤おうぎはかなめからかさはろくろ 狂言末広栄きょうげんすえひろさかえ』も含まれる)。
弾圧後、「蔦重―歌麿」コンビが革命を起こす
耕書堂の自粛と不振は喜多川歌麿の画業にも影響した。寛政3年からの数年間、歌麿は栃木に赴き、篤志家のもとで肉筆画の制作に没頭していたという説があり、それを薦めたのは他ならぬ蔦重だとされている。
穿った見方をすれば、この沈黙期に新しい美人画の構想と試作がなされたと解せよう。それは歌麿の栄進はもちろん、財産を半減された蔦屋耕書堂の再興にも直結する。捲土重来に息巻く蔦重と過大なる期待を背負わされた歌麿――歌麿のプレッシャーの大きさは相当なものだったろう。しかし、彼はそれに応える画力を培っていた。
寛政4年から5年にかけて、蔦重は一気呵成に歌麿の美人大首絵を開板する。
大首絵とはモデルの上半身をクローズアップした構図の錦絵をいう。
そもそも大首絵は役者絵における人気アイテムだった。それを美人画と結び付け、アレンジしたのが「蔦重―歌麿」の眼の付けどころ。美人画は浮世絵開祖の菱川師宣以来、全身図が表現のセオリーとして定着、幾多の絵師がこのスタイルで名作をものしてきた。そこに、「蔦重―歌麿」が盲点を衝く形で美人大首絵をぶつけてきたわけだ。まさにコロンブスの卵だった。