「俺の絵にはこれがある」やなせたかしの秘書でも気づかなかった「アンパンマン」が大ブレークした要素
「手塚治虫以後」激変してしまった漫画界で葛藤した日々
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朝ドラ「あんぱん」(NHK)のモデルである、「アンパンマン」の作者やなせたかし氏。『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)を上梓した元秘書の越尾正子さんは「やなせ先生は“遅咲き”と言っても貧乏に陥ったことはなかったが、漫画家としての代表作がなかなか出なくて苦しんでいらした」という――。
やなせは漫画でもヒットを飛ばしたかった
やなせたかし先生は自分のことを「遅咲き」と言っていましたが、本当の意味での貧乏生活を送ったことはありません。三越でのデザイナー、作詞、舞台の仕事など、幅広い分野で活動し、ある程度の収入は常にありました。それでも先生が求めていたのは、仲間内で知られているだけでなく、子どもも大人もみんなが知っている真の代表作でした。
先生はよく一節太郎という歌手の話をしていました。1曲だけのヒットで有名になった人です。「手塚治虫先生と言えば鉄腕アトム、横山隆一先生と言えばフクちゃん。作家と代表作はセットになっている。でも、やなせたかしはいろんなことをやっている人で、これといった代表作がない」というのが先生の悩みでした。
「手のひらを太陽に」の作詞者として知られていても、漫画家というわりに漫画の代表作がないのが苦しみだったのです。いろんな才能があり、様々な分野でトップ集団に入りながらも、漫画での代表作がないことに、ずっと満たされない思いを抱えていました。
しかも、漫画の世界は手塚治虫先生の出現で劇的に変化し、それまで描いていた漫画が通用しなくなりました。手塚治虫以前と以後では、描き方も作品の質も根本的に変わってしまい、新しい世代の読者には以前の作品への共感が難しくなったのです。
54歳のときに「アンパンマン」を生み出す
そんな中で1973年、先生が54歳のときに生まれたのが絵本の「アンパンマン」でした。通常のアニメーションは漫画(コミック)からアニメーションになるのが一般的でしたが、アンパンマンは絵本からアニメになったという画期的な例だったのです。
とはいえ、絵本が出た当初は正直話題になりませんでした。アンパンマンが自分の顔を食べさせることが残酷だといった批判などもありました。先生自身も「コミックと違って絵本だからアニメにしても続いていくのか」という心配を抱いていました。
しかし、テレビ局のプロデューサーは「子どもたちがボロボロになるまで絵本を読んで買い替える現象を見れば、絶対にウケる」と太鼓判を押し、制作会社も「キャラクター自体が良いから、(連載漫画ではなく)絵本でも大丈夫」と判断しました。そして、実際にアニメーション化された時には大きな反響を呼んだのです。