なぜ手塚治虫はやなせたかしにエロチックな「千夜一夜物語」を任せたのか…初のアニメ映画で思いがけない成功
「やさしいライオン」のアニメ化が絵本作家になるきっかけに
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朝ドラ「あんぱん」(NHK)の嵩(北村匠海)は、やなせたかし氏がモデル。作家の青山誠さんは「やなせは漫画でヒットを出したいと願っていたが、先に歌の作詞や詩人として認められた。アニメを制作する手塚治虫はそんなやなせに新しい活路を示した」という――。 ※本稿は、青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
「あんぱん」の八木はサンリオ辻信太郎会長か?
その一方で、便利屋稼業はあいかわらず好調だった。なんでそうなる? なりたい自分と、世間から求められる自分が、どうしてこんなにかけ離れてしまうのか。めざす夢の方向に吹く風を、うまく捕まえることができない。見当違いの方角に吹き流されて、迷走をつづけている。
これはまだ『ボオ氏』の執筆に没頭していた頃のこと。山梨シルクセンター(現在のサンリオ)の辻信太郎社長が、
「やなせさん、詩をまとめて、詩集として出版しましょうよ」
いきなり、こんなことを言ってきた。昔から詩作が趣味だったやなせは、担当するラジオ番組で自作の詩を披露していた。辻社長も詩が好きで、とくに抒情詩に傾倒していたというからやなせとは趣味があう。放送もよく聴いていたようだ。
しかし、当時の山梨シルクセンターは従業員6名の零細企業で、菓子容器などのキャラクター商品開発が本業。やなせも菓子パッケージのデザインの仕事をしたことが縁で、辻社長と交流するようになった。出版とはまったく関係ない会社だし、資金も潤沢とは思えない。だから、社長も冗談半分で言っているのだろうと思い、
「ああ、いいですよ」
と、適当にあいづちを打ったのだが、彼は本気だった。やなせの了解を取ると、辻社長はすぐ社内に出版部を立ち上げて、出版に向けて動きだす。
手塚治虫からアニメ映画の仕事を依頼される
昭和41年(1966)9月、やなせの処女詩集『愛する歌』が刊行された。初版はわずか3000部だったが、反響は意外に大きくすぐに重版が決定する。最終的には続編と合わせて10万部を売り上げ、詩集としては異例の大ヒットになった。やなせは詩人としても脚光を浴びるようになる。
漫画家として再起することをめざし、寝る時間を削りながら『ボオ氏』を描いていた頃だけに、
「もうやめてくれよ。漫画に集中させてくれ」
詩集が売れたのは嬉しいけれど、その心境は複雑だった。
この処女詩集が発行された翌年には、手塚治虫からも映画アニメ『千夜一夜物語』でキャラクター・デザインをやってほしいと依頼された。彼が設立した虫プロダクションが全力をあげて、200人近いスタッフが関わる大作だという。
手塚とは漫画集団の会合や忘年会で何度か顔をあわせ、テレビ番組で一緒に仕事をしたこともある。しかし、さほど親しい間柄とはいえない。漫画界の巨匠と便利屋のやなせでは接点がなく、会えば挨拶をする程度の薄いつきあいだった。そういった人が経験のない仕事を依頼してくる。