「大奥=将軍のためのハーレム」ではなかった…江戸城の最深部にいた数百人の女性との「夜の営み」の意外な実態
大奥を使い倒した11代将軍家斉は53人もの子女をもうけた
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江戸城にあった大奥とはどんな場所だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸城本丸御殿の約半分を占め、数百人もの女性が仕えていた。ただ、将軍は好き勝手に『夜の相手』を選べたわけではなかった」という――。
秘密のベールに包まれた大奥の真の姿
江戸城の最深部に位置し、1人の将軍のために何百人もの女性が仕えていた大奥。秘密のベールに包まれた場所として、いまなお好奇の的になっているが、実際に存在し、機能していた当時から、謎に包まれた場所だった。
というのも、大奥については残されている史料がきわめて少ないのだ。大奥の奥女中として採用される女性は、血判を押した誓紙を差し出すことが求められ、そこには「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじき事」などと書かれていた。奥女中たちは大奥について記録するのはもちろん、口外することさえ許されなかったので、その様子は当時から、外部に伝わりにくかった。
このため、これまで伝えられてきた大奥の姿は、主に幕末の混乱期に漏れた情報や、明治になって大奥関係者から聞きとられた内容が中心だった。しかし、ここにきて大奥の建築について研究が進むとともに、将軍家に御台所みだいどころ(正室)を嫁がせた公家や大名家、将軍の娘が嫁いだ大名家などに残されていた史料の解明が進むなどして、実態が少しずつ明らかになっている。
最初に、大奥がどこにあったのかを確認しておきたい。
江戸城本丸御殿の半分を占める
大奥は徳川幕府の中枢である江戸城本丸御殿の一部だった。東京ドームの約2.5倍に当たる約3万5000坪の江戸城本丸は、130棟もの殿舎が連なる御殿で埋め尽くされ、その建坪は時期によっても異なるが、1万2000~1万6000坪におよんだ。
本丸御殿は手前(南)から奥(北)に向かって展開し、手前から順に3つに分かれていた。諸大名が将軍に謁見し、役人たちが政務に励む「表」、将軍が起居して日常の政務にあたった「中奥」、将軍の御台所を中心に、側室や子女、奥女中らが暮らすプライベート空間の「大奥」である。
御殿のなかでは、官邸に該当する表や公邸に当たる中奥が広かったと考えて当然だと思うが、じつは、一番広かったのが大奥で、本丸御殿の建坪の約半分を占めていた。たとえば弘化2年(1845)の図では、1万1373坪の総建坪に対し、大奥は6318坪を占めている。
それほど広大なエリアなのに、中奥とのあいだは、上下2つの御鈴おすず廊下だけでつながれていた。廊下の入口には杉戸が立てられ、中奥側と大奥側にそれぞれ鈴があって、将軍が入るときと出るときに鳴らされた。
その大奥がさらに、将軍や御台所がすごす「御殿向ごてんむき」、奥女中らが暮らす「長局向ながつぼねむき」、大奥の事務をつかさどる「広敷向ひろしきむき」の3つのエリアに分かれていた。