皇族も亡命者も"刺した女"もみな乗客だった…鉄道のダイヤグラムで振り返る日本近現代史
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なぜ、列車は人生の分岐点になるのか。『歴史のダイヤグラム〈3号車〉 「あのとき」へのタイムトラベル』(朝日新書)を上梓した政治学者の原武史さんは「列車には余白の時間がある。たとえば昭和のジャーナリストの神近市子は、青森に向かう途中で家出少女に出会い、過去の自分に重ねることで若くして人生の変化を感じ取っている」という――。
敗戦直後に車両に刻まれた「T.K.K.」
東急電鉄のルーツは、一九二三(大正一二)年に目黒―蒲田間を開業させた「目黒蒲田電鉄」にさかのぼる。
創業者の五島慶太は、阪急を創業した小林一三からノウハウを学びながら、社名は倣わなかった。五島が別会社として現在の東横線を開業させたときも、社名は「東京横浜電鉄」だった。同社は一九三九(昭和一四)年に目黒蒲田電鉄と合併したが、社名は東京横浜電鉄のまま変わらなかった。
東急の正式名称となる「東京急行電鉄」が誕生したのは、東京横浜電鉄が現在の京急と小田急を合併した一九四二年になってからだ。小林が周到な戦略のもとに阪急を誕生させたのとは異なり、東急の略称は戦時統合によって生まれたのだ。
敗戦直後の一九四五年九月には連合国軍との連絡を図るべく、英文会社名を定めるとともに英文略称を「T.K.K.」とした。車両の側面には、東京急行電鉄株式会社の「東」と「急」と「株」のイニシャルを意味するこの三文字が大きく掲げられた。
「とっても、こんで、こまる」と笑った慧生
清朝最後の皇帝にして「満州国」の皇帝だった愛新覚羅溥儀の弟、溥傑と結婚したのが嵯峨浩である。東横線の日吉駅の近くに浩の実家があった。ここに長女の慧生が一九四三年から住んでいた。敗戦後、中国各地を転々としていた浩が四七年に次女と帰国すると、ようやく慧生と一緒に暮らせるようになった。
慧生は日吉から高田馬場まで、東横線と山手線を乗り継ぎ、新宿区にあった学習院女子中等科や高等科に通っていた。毎朝6時ごろに発ったのは、通勤ラッシュを避けるためだったという(『「流転の王妃」の昭和史』)。
慧生が浩に、東横線の車両の側面に刻まれた「T.K.K.」の意味について尋ねたことがあった。
「もちろん、“東”京“急”行“株”式会社の頭文字でしょう」
浩がこう答えると、慧生はクックッと笑い出した。
「ちがうわ、奶々、教えてあげましょうか。“と”っても、“こ”んで、“こ”まるの頭文字よ」
「奶々」は父方の祖母を意味する中国語だが、溥傑を含む清朝の皇族は「お母さま」を意味する宮中言葉として用いた。「満州国」が滅んでも、言葉はまだ生きていた。浩はしばらく離れていたのに快活に育つ娘の姿に感動した。
そんな娘が静岡県の天城山中で男子学生と心中したのは、学習院大学に通っていた一九五七年一二月のことだった。
私自身、一九七五年から八一年まで東急東横線に乗り、日吉にある私立の中学と高校に通っていた。「T.K.K.」の三文字が側面に掲げられた車両は、もう見かけなくなっていた。しかし「とっても・こんで・こまる」という朝のラッシュ自体は、一向に変わらなかった。