【天才の育て方】#13 大川翔~14歳で高校卒業、名門5大学合格の”ギフティッド”[前編]

【天才の育て方】#13 大川翔~14歳で高校卒業、名門5大学合格の”ギフティッド”[前編]

KIDSNA編集部の連載企画『天才の育て方』。 #13は、12歳で中学を飛び級し高校へ入学、カナダ名門5大学に奨学金付きで合格を果たした大川翔さんにインタビュー。現在は生物学を研究する彼は、どのように育ったのだろうか。その背景を紐解いていく。

「生き物の謎を解き明かしたくて、研究の道に進んだ」

「小学6年生で高校1年生に飛び級。3歳年上のクラスメイトと一緒に学んだ」

「両親が失敗を褒めてくれた経験から、とにかく行動し続けた」

こう語るのは、9歳でカナダ政府にギフティッド認定を受けた現在20歳の大川翔さん(以下、翔さん)。

12歳で中学を飛び級し、カナダの高校に進学。14歳で、ブリティッシュコロンビア大学、マギル大学、トロント大学、サイモンフレーザー大学、ビクトリア大学という、カナダ名門大学5校に奨学金付きで合格。17歳で選抜されハーバード大学で研究発表したうえ、サンフランシスコのグラッドストーン研究所で研究。

18歳でブリティッシュコロンビア大学を卒業後、東京大学先端科学技術研究センターにて研究をする傍ら、19歳で慶應義塾大学大学院・先端生命科学部に入学。共同プロジェクト担当者に選ばれ、トロント大学への出向も経験している。

これまでの研究を続けながら、今秋にはブリティッシュコロンビア大学院のバイオメディカル・エンジニアリングへ入学予定だ。

最先端の生命科学研究機関が彼の才能を必要としている。稀代の天才はどのように育ったのだろうか。今回はご両親にもご同席いただき、彼の才能が育まれたルーツを探る。

英語力をつけるための桁外れの読書

両親の仕事の都合で、5歳のころにカナダへ渡った翔さん。家では日本語、外では英語で会話する生活が始まり、小学校の入学前に1年間通う義務教育機関『キンダーガーテン』では、ESL(English as a Second Language)、つまり”母国語が英語ではない生徒”として入学した。

――母国語ではない英語をどのように習得されたのですか?

大川翔さん

翔「キンダーガーテンでは、普通の授業のほかに、ESL用の補習授業がありましたが、2カ月経ったころ、ESLクラスはもう必要ないといわれたんです。それほど短期間で英語力が上がったのは、英語の本をものすごくたくさん読んだからだと思います。

どうしたかというと、母が、近所の小学生をベビーシッターとして“雇った”んです。Grade6(12歳)のお姉さんたちが、1時間4カナダドルで、絵本をひたすら読んでくれていました。

僕の住んでいた州では、12歳くらいからベビーシッターのアルバイトをすることが多い。11歳で、市のセンターでベビーシッター養成コースを受けることができるんです。

図書館からは、一度に60冊まで借りられたので、毎週60冊は読んでもらっていました」

母「カナダに来る前、日本にいたころは毎日30分ほど英語のDVDやCD付きの絵本を使っていました。親も一緒に見て、一緒に楽しむこと、そして、ひとつのDVDを次のセリフが言えるくらい、何度も見ることを意識していました。カナダに来てからは、近所のお友達と一緒に鑑賞していました。

キンダーガーテンのESLの先生からは、スピーキングに多少の問題はあるものの、リスニングはできているという評価をいただき、1日30分でも、継続してきてよかったと思いました」

5歳のとき、キンダーガーテンのクラスの友だちのバースデー・パーティに呼ばれた翔さん。(提供:母・大川栄美子さん)
5歳のとき、キンダーガーテンのクラスの友だちのバースデー・パーティに呼ばれた翔さん。(提供:母・大川栄美子さん)

――小学校に入ってからは、どうでしたか?

「キンダーガーテンのころ、あれだけ本を読んでいたのに、Grade1(小学1年生)の最初に、リーディングのテストで最低クラスになってしまって、すごく危機感を覚えました。

そこで、毎日たくさんの本と格闘し、さらに大量の本を自分で読み、読み聞かせもしてもらいました。ただ読むだけじゃなく、声を出して読むようにして。1年生の終わりごろには、一番上のクラスに上がれて、すごく自信がつきました。

小学校3年生のころには、先生におすすめの本を聞いたり、気に入った本は何度も読んだりして、図書館の本を全部読み尽くす勢いでした。1日に400~500ページは読んでいたと思う。休みの日だと600ページくらい」

大川翔さん

――中には、読むのが難しい本もあったのではないですか?

翔「最初がやっぱり難しくて、ボキャブラリーが不足しているときは、学校で教えてもらったコンテキストクルーズという方法で読んでいました。分からない単語の前後にあるニュアンスから文章の意味を大体理解していき、分からない単語はチェックしてあとで調べる。その蓄積によりだんだん読めるようになっていった」

乳幼児期は脳にさまざまな刺激を与える

桁違いの量の絵本を読むことで、短期間で英語を習得した翔さん。その背景にある、乳幼児期の両親のかかわり方はどんなものだったのだろうか。

父「翔が生まれたころ、当時としては珍しく、職場でも私が初めての男性育休取得者となり、日中の子育てを担当していました。生まれる前は楽勝だと思っていましたが、そうではなかった。世のお母さんが経験する、新生児の子育ては大変ですね。仕事のほうがよっぽど楽だと思いました。

煮詰まっても話し相手が子どもしかいない。赤ちゃん言葉で話しかけることに抵抗があったので、大人に話すように翔にも話しかけていました。結果的によかったのかもしれませんが、当時は私の精神衛生のためにとにかく話しかけていました(笑)」

7歳のとき、家族でハイキング。(提供:母・大川栄美子さん)
7歳のとき、家族でハイキング。(提供:母・大川栄美子さん)

翔さんは翌4月から保育園に通う。お父さまが仕事を終え、帰宅するのは22時ごろ。弁護士を務める翔さんのお母さまは、法科大学院、大学、予備校でも教鞭をとり多忙を極める。保育園が終わってからはベビーシッターに0歳の翔さんのお世話をお願いしていたという。

母「育児書を読み漁り、自分がやりたいと感じたことは全てやろうと思っていました。翔が生まれた頃には、一端の教育評論家気分でした。ただ、実際には半分もできなかったというのが本音です。

そんな中でも大切にしていたのは『五感を鍛える』こと。具体的には、本の読み聞かせや、手足を使った運動、音楽を聴く、美味しいものを食べるなど。美しい景色、洗練されたデザイン、名画といった目に心地よいものに触れるために博物館や水族館、美術館をめぐったり旅行もしていました。

翔は、2、3歳から、パズルや迷路などのおもちゃによく熱中していました。苦戦していても口を出さずに見守るようにしていました。一心不乱に取り組んでいるので、『集中力あるなあ』と思ったことはあります。

また、3歳からは、公文、七田式で勉強を始め、ピアノも習い始めました。4歳からは漢詩、論語、百人一首の素読を始めました。脳の刺激に効果的という話はよく聞きます。

大川家独自のルールというものはなく、あくまでも先人たちの教えを知り、試行錯誤を繰り返し、良いと思ったことを導入していきました」

5歳から続けた国際明武舘剛柔流空手で、14歳のとき、10年目にして八木明達十段から黒帯初段を授与された。沖縄本部道場にて。 一緒にいるのは、八木明広(左)先生と現舘長の八木明人先生(右)。(提供:母・大川栄美子さん)
5歳から続けた国際明武舘剛柔流空手で、14歳のとき、10年目にして八木明達十段から黒帯初段を授与された。沖縄本部道場にて。 一緒にいるのは、八木明広(左)先生と現舘長の八木明人先生(右)。(提供:母・大川栄美子さん)

――そんな中で、翔さんの才能を感じた瞬間はありましたか?

「男の子は女の子に比べ、話し始めるのが遅いと言われますが、翔の場合は発語も早く、よく話す子でした。突然センテンスで話し始めたので、よく覚えています。

私は仕事柄、午前様になることもあり、寝顔しか見られないこともあったのですが、ある夜のこと、帰宅したらいきなり、『ママ、きのう帰ってこなかったでしょ!』と仁王立ちして詰問口調で言われたこともありました。まだ1歳だったので驚きました。

実際は、子どもが寝た後に帰宅し、3~4時間横になり、その間、真夜中の授乳もしたうえ、朝子どもが目を覚ます前に仕事に出かけたというのが真相なのですが、翔は真夜中の授乳は覚えていなかったようで……真実を知る夫と顔を見合わせ、『どこでそんな言葉を覚えたのやら』とちょっと笑ってしまいました。

保育園でも、既にいろいろ先生方に話していたようで保育園での五感への刺激や語りかけ、本の読み聞かせがもたらした結果かもしれません」

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日本にないギフティッド制度

翔さんはGrade3(小学3年生)のときに、担任の先生にギフティッドの試験を受けるように薦められる。

ギフティッドとは、“贈り物”を意味し、学習障害など支援の必要な生徒にヘルパーの先生がつくのと同じように、それぞれ必要に応じて最適な教育が受けられるようにする公的な制度。その才能を社会のために還元できるようにというメッセージが込められている。

――試験を受け、9歳でギフティッドに登録されたとのことですが、認定されると、どのようなことをするのですか?

大川翔さん

翔「通常授業の合間に、週に数時間、特別なカリキュラムで教育を行います。

ギフティッドプログラムの内容は、たとえば、理科で実際に使える“うそ発見器”を作ったり、シェイクスピアを原文で読んだり、小説を書いたり、大学から教授が来てチェスをしたり。いろいろやりましたが、がりがり勉強するというよりは遊びのような感じ。自分が興味のあることを追求できるようなプログラムだったのでとても楽しかったです」

――「天才児」と訳されることもあるギフティッドに認定され、ご両親はどう思われましたか?

父「正直に申し上げますと、心配でした。私の認識では、ギフティッドと認定されたということは、ある意味バランスが悪いということ。特定の能力だけが長けている代わりに、平均的にこなせる能力が犠牲になり生きづらくなってしまうのではと、危機感がありました。

しかし、本人がギフティッドプログラムに参加する様子を見て、自信を持って楽しんでいるのであればいいやと思うようになりました。

ただ、 日本ではギフティッド制度がないため、不適合を起こして苦しんでいる子たちや、苦労されている親御さんたちがたくさんいると思います。そういう意味では、ギフティッド自体が難しい問題だとも思います」

母「ギフティッド自体それほどめずらしいものではありませんし、翔の小学校にも学校全体で4人くらいは在籍していたようです。学年に1人いるかいないかという割合です。

ギフティッドだから凄いと思われやすいですが、これはひとつの尺度に過ぎません。能力があったとしても、日々の努力を積み重ねなければ活かすことはできないと思っています」

日本では『ギフティッド=天才児』というイメージが強いが、統計的には人口の2%ほどの割合。日本では認定されていないだけで、250万人ほどがギフティッドに該当する。

個々人に見合った教育を与え才能を伸ばすギフティッドの制度は、日本でもいつか導入する日が訪れるかもしれないと翔さんはいう。

前例のない“学校に通いながらの飛び級”

小学6年生のときに、Grade10(高校1年生)課程に飛び級した翔さん。カナダのエレメンタリースクールを6月に修了後、高校過程の勉強を継続しつつも、帰国を考え、日本の私立・渋谷教育学園幕張中学校に帰国子女枠で受験し、合格を果たしている。

大川翔さん

「僕の周囲には、学年はそのままで、できる科目だけ上の学年を勉強している人が何人かいて、数学や理科に多い。これを『科目別飛び級』といい、僕も最初は数学だけしました。

小学校6年生で、高校1年数学を始めて、1年分を2カ月で終了。高校2年数学は、物理や化学などの他の科目に時間をかけた分ゆっくりやって、高校3年数学は13歳のときに1年分を1ヵ月で終わらせました。それから大学1年数学に入り、数学は大学1年課程を14歳で終えることができました」

母「科目別飛び級は、生徒の個性に合わせたフレキシブルな教育法です。翔の通った公立高校はユニークな教育システムが特徴で、生徒がラーニング・ガイドと呼ばれるシラバスをもとに、担任の先生と相談しつつ、自分で具体的な学習計画を立て、それに沿って学習していました。

授業時間のほかに、ワーク・ブロックという自習時間があり、自分で学習をどんどん先に進めることができ、次のステップの授業を受けることも可能です。その結果、同じクラスに学年の違う生徒がいるということも。生徒の自主性を尊重したやり方が、翔に合っていたと思います」

8歳のとき、クラスの友達を呼んで翔さん主宰のパーティを開催。テーブルの上にあるのは、翔さんが作ったハリーポッターの学校ホグワーツ模型。(提供:母・大川栄美子さん)
8歳のとき、クラスの友達を呼んで翔さん主宰のパーティを開催。テーブルの上にあるのは、翔さんが作ったハリーポッターの学校ホグワーツ模型。(提供:母・大川栄美子さん)

翔「数学の科目別飛び級をしたあと、すぐほかの科目の試験も受け、評価されて学年全部飛び級になりました。学年の飛び級は、どれかひとつの科目だけができるとかではだめで、決め手は英語力だと副校長先生が言っていました。つまり、国語力ということだと思います。

僕はその時、日本の中学受験対策をしていたこともあって、小学6年生で高校1年生以上の英語をやらせてもトップクラスと判断されました」

――日本の中学受験の帰国子女枠というと、どれくらいの英語力を求められるのですか?

翔「先生に過去問を見せると、公立のGrade11~12レベルと言われました。これはカナダの高校2年生から3年生に当たります」

――日本の中学に進まず、カナダに残ったのはなぜですか?

父「受験のために小学1年生のころから、Z会などの通信教育や論文、面接対策もしていたし、当然帰国するつもりでした。本人もいろいろ考えたと思います。家族でよく話し合い、最終的には、本人の意志を尊重したということです」

大川翔さん

翔「進路を決めるときには家族で意見が分かれたところもあり、納得するまで徹底的に話し合いました。

日本の中学校に行っていたら、今どうだったんだろう?と思うことはありますが、それはまた別にあったかもしれない人生で、その時の僕はカナダに残りたいという気持ちが強かった。

同世代との3年間の中学生活を捨て、他のみんなより3年早く高校に進み、早く大学へ行く道を選びました。

理科や数学をもっとやりたいという気持ちと、小さいころから興味のあった生物の謎解きに挑んでみようと思ったのです。

両親ともとことん話し合って、結果的に僕が望む方向でサポートしてくれることになりました」

14歳で高校を卒業後、生命科学研究の道に進むため、ブリティッシュコロンビア大学に入学した翔さん。後編では、生命科学へと向かわせた翔さんの好奇心と、日ごろのご両親のかかわり方について聞いていく。


<撮影>小林久井(近藤スタジオ)
<取材・執筆>KIDSNA編集部

画像
<連載企画>天才の育て方 バックナンバー

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