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【木村草太】人権は人任せにしても守られない
子どもをとりまく環境が急激に変化し、時代が求める人材像が大きく変わろうとしている現代。この連載では、多様化していく未来に向けて、これまで学校教育では深く取り扱われなかったジャンルに焦点を当て多方面から深掘りしていく。今回は、憲法学者の木村草太氏に話を聞いた。
いじめや誹謗中傷、虐待、学校の規則。子どもたちをめぐる「権利」の問題は、実は私たちのすぐ身近にある。
しかし、本来、子どもたちの権利はどのようにして守られるべきなのか?どんな場面で、どのように権利は主張できるのか。
「人権は、人任せにしていても自然に守られるというものではありません。権力者が人権を侵害していないか、一人ひとりが監視することが大切。さらに、人権侵害に気づいた人が、それぞれのやり方で人権侵害を止める工夫をすることも大切です」と話すのは、憲法学者の木村草太氏。
現代の子どもたちが置かれている状況と、これから子どもたちが巣立っていく社会のために親ができることは何か、聞いた。
学校のルールは子どもの人権侵害か?
――子どもの頃から人権について知ることは、子ども自身がおかしいことにおかしいと気づき、声を上げられるになるということなのでしょうか。
「そうですね。たとえば、学校の運動会での組体操やムカデ競争の危険性が話題になっていますが、人権についての理解がないと、骨折をするような事件になっても『大ごとではない』という感覚につながってしまいます。
子どもたちには一人ひとりが健康に生きる権利があるとか、学校には子どもの安全に気遣うべき義務があるということを分かっていると、『怪我をするほど危険な競技を子どもたちにやらせるのはおかしい』という考えになるはず。
子どもたちの権利がこういう形で侵害されることはおかしいと、学校や教師に突き付けられるんです。
学校の校則も、『学校のいうことには全部従うことがデフォルトだ』という感覚でいると、おかしな校則があっても、我慢しなければいけないと思ってしまいます。せいぜい、学校にお願いして、『学校が校則を変えてくれたらうれしい』という考えになってしまいます。
しかし、日本国憲法第3章には、19条の思想・良心の自由、20条の信教の自由、21条の表現の自由、22条の職業選択の自由、そして23条の学問の自由などさまざまな自由が定められていることからもわかるように、日本国憲法のデフォルトは“自由”。
ですから、『自由を規制する校則を作る側にこそ根拠がいるんだ』という発想で問題に取り組むのが本来のスタートラインです。ここは結構大きな違いだと思います」
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
出典:衆議院ホームページ(http://www.shugiin.go.jp/)
制服は本来「おすすめのスタイル」だ
「憲法98条は、『この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない』と定めます。つまり、憲法の保障する自由を侵害するようなルールはすべて無効です。
まさに“学校では教えてくれない”話ですが、『生徒・児童は校則に従わなくてはならない』という法律は、実はないんです。校則に法的根拠はない。ただ、学校には、大きく分けて『教育のための権限』と『施設を管理する権限』があります。
たとえば、駐輪場や駐車場のスペースを十分に確保できない学校で、自転車やバイクを持ち込まれると困るでしょう。そういった事情から、自転車通学・バイク通学を禁止することは、学校の施設管理権というところから説明がつきますよね。
ほかにも、『授業中にうるさくすると他の子どもが授業を受けられないのでやめましょう』とか『宿題をやってきてください』というのは教育の権限から説明がつきます。
逆に、教育や施設管理と無関係なことを子どもたちに強制する校則は、憲法が保障する自由の侵害ですから、法的には無効とされるんです。
たとえば、『黒い靴下は履いてきてはいけません』という校則があったとして、靴下の色は施設管理に支障はないはずです。教育の権限から見ても、黒い靴下によって教育に支障をきたすなんてことは、通常は考えられません。ということは、この校則は法的根拠はないんじゃないかということになるんです。
制服も同じで、制服自体を強制する法的根拠を考えてみると、意外と難しいんですよ。何しろ、“制服を着ていないとできない教育”ってそんなにない。
過去の裁判で、制服の強制は違法だと提訴した例があるのですが、学校側は『制服は強制してないから違法じゃない』と主張しているんです。だけど実際には、学校側は『制服は学校おすすめのスタイルというだけなので、着たければ着てください』と入学式で説明したりしないわけじゃないですか。
学校関係の裁判の内容を教育現場の人々が知ると、みんなびっくりします。もしも自分が中学校の教師だったら、生徒に知られたくないですよね。『制服を着なさい』と指導しているのに、裁判になると『これは強制ではありません』というのは、おかしいですから。
裁判の結論としては、生徒側が負けているんです。校則が強制じゃない以上、違法にはなりえないので、生徒の損害賠償請求は認められない。そのため、校則裁判では子ども側が負けるという印象になりがちなのですが、中身をしっかり読むと、むしろ勝っているんです。裁判官が『強制ではありません』といっているのですから、翌日から制服を着ていかなくたっていいというわけです。
校則裁判に関しては、結論だけがひとり歩きして、『損害賠償は取れませんでした』とか、『裁判所が違法といってくれませんでした』という情報だけが流れがちなのですが、実は裁判によって子どもたちの権利を侵害する校則が無効化された、なんてことは結構あります。
学校はルールに対する説明責任がある
――憲法で保障されている人権や自由と、学校での制限やルール。これらの折り合いはどうつければいいのでしょうか?
「学校が持つ教育と施設管理の権限に基づいてきちんと説明ができるならば、自由の制限が許されます。ただ、原則は『自由』なのですから、自由を制限する側にしっかりと説明する責任がある。その基本を押さえることが大事ですね。
たとえば、『組体操によって、子どもたちの健康に過ごす権利が侵害されている』との声が上がったとき、学校側が『組体操がいかに安全か』を説明できないといけない。
学校の説明を聞いた上で、やるかやらないかは自分で決める。それが基本的な枠組みです。この学校の説明するような安全基準では子どもを任せられないなと思ったら、躊躇なく参加しませんといってほしいと思う。
そんな大げさな、と思うかもしれませんが、これは大事なことです。骨折は、子ども時代というとても大事な時期に、時間を奪われてしまうということ。フィギュアスケートの紀平梨花さんは、中学校のムカデ競争に参加しなかったそうです。スケジュールが忙しくて参加しなかったのではなく、もし怪我をしたらアスリートとして競技に支障が出るからと、危険性をご自身で判断して参加しなかったと。
紀平さんが世界的なアスリートだから特別なのではなく、一人ひとりの子どもには、それぞれ『いま大切なこと』があると思うのです。それは、ピアノ演奏だったり、サッカーだったり、あるいは、学校の組体操こそが大事という子もいるかもしれない。“個人の尊重”という観点から、学校の先生にはぜひ、それぞれの大切なことを受け止めてほしいですね」
――学校では協調性や団体行動も大切にされている中、そういった一人ひとりの選択を受け止められる環境にもなってほしいです。
「一人ひとりの選択といえば、ぜひ子どもたち同士でも考えてほしいことがあります。組体操問題や校則問題について、『組体操をやるかどうか生徒で投票して決めよう』とか『変な校則があるから、生徒総会で校則を決めよう』という試みをした学校があるんですね。
ここでちょっと考えてみてほしいのは、たとえば生徒総会で多数決で変な校則が認められたら、変な校則は“変ではなくなるのか”ということなんです。
組体操も同じです。多数決でやると決まったからといって、巨大ピラミッドの危険性が突如としてなくなるわけではないし、ピラミッドが壊れなくなるわけではない。多数決で決めたからといって、子どもたちを危険にさらしてはいけないのは当然です。
多数決は便利な決め方ですが、あくまで決め方のひとつ。何でもかんでも多数決で決めればよいというものではありません。憲法には、多数決で決めてよいこととそうでないことを分ける役割もあります。多数決で制限することが許されない自由もある。個人の領域の事柄は、国民の多数決ではなく、個人の自由に任せよう、という考え方です。
だから、学校でも何かを決めるときに『本当に多数決すべき事柄なのか?』と考えてみる必要があるのです」
自由を制限できるのは「公共の福祉」
――性別や人種、宗教などさまざまな多様性のなかで、人権を差別やハラスメントの観点から見るとどうでしょうか。
「私は狭い意味では憲法14条の『平等権』の専門家なので、差別とはそもそも何かという話からします。差別とは、人間の類型に向けられた否定的な感情のことです。人の感情に基づくものである点で、不平等とは異なる。
不平等とは、不合理的なことが行われているときに使う言葉です。たとえば入試で100点をとった人がふたりいたのに、計算ミスのせいで、片方は受かって、片方は受からないというような状況です。一方で差別は、女性は政治的発言をすべきではないとか、黒人はいやだといった感情、そして、それに基づいた行動のことをいいます。
差別の特徴に、『あいつが嫌いだ』と個人に向けられたものではなく、人種や性別といった人間の類型に対する否定的な感情である、ということがあります。
否定的な感情なんて持たないに越したことはありませんが、そういう感情を持ってしまうこと自体は、自分の意思ではなかなか止めようがないでしょう。
では差別を禁止にすることの何が大事かというと、そうした個人的な感情を公共空間に持ち込んではいけないということ。仮に差別感情を持ったとしても、ぐっとこらえて、公の場面では表現してはいけないし、それに基づいて法律をつくったり、会社の人事を行ったりしてはいけないということなんです。
そうでなければ、社会という公共の場でさまざまな感情や価値観を持った人々が共存できない。つまり、多様性は実現できないということです。
共存を支える原理を『公共の福祉』といい、憲法が保障する自由でも、公共の福祉のためにやむを得ず制限する場面があります。たとえば、差別の禁止は、思想・良心の自由を制限した例です。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
出典:衆議院ホームページ(http://www.shugiin.go.jp/)
ほかにも、表現の自由は大切ですが、人の名誉を傷つけるうそをついてはいけませんし、職業の自由があるからといって、盗みを職業にされては社会が成り立ちません。宗教の自由はあるけれども、会社で『社長はこの宗教だからみんなで儀式に付き合いましょう』なんてことをするのはやめましょうということです。
憲法上の自由を制限するには、国家権力の側が、公共の福祉を実現するのに必要であることを説明しなければなりません。権利の重要性に照らしても、公共のためには制限がやむを得ない、といえるような理由があるかどうかで判断する。その理由が『公共の福祉』なのです」
他人の権利を侵害してまでも、自分の自由を行使してはいけない。自由と公共の福祉とのバランスで、多様な人々の共生する社会があるのだ。
後半では、私たちの人権意識がなぜ薄いのか、そして親としてどのような考え方をするとよいか聞いていく。
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<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部