早世した息子の妻を養子にし、再婚相手も探した…豊臣秀長の知られざる人柄が見える「家の差配」

早世した息子の妻を養子にし、再婚相手も探した…豊臣秀長の知られざる人柄が見える「家の差配」

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で注目される秀吉の実弟・秀長(仲野太賀)。系図研究者の菊地浩之さんは「秀長の妻子については十分な史料が残っていない。ただ、養子や養女を大切に扱ったことは、彼らの落ち着いた先をたどれば分かる」という――。 ※本稿は、菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。

秀長の「長」は誰からもらった?

秀吉の異父弟・豊臣大納言秀長(1540~91)は、はじめ木下、のちに羽柴を名乗り、通称は小一郎、美濃守。諱いみな(実名)ははじめ「長秀」を名乗った。いうまでもなく、信長から偏諱へんき「長」の字をいただき、秀吉の「秀」の字をつけたものであろう。当時、同名の丹羽長秀が健在であったが、秀吉には関係なかったようだ。天正12年に秀長と改名。秀吉の指示であろう。

永禄8(1565)年に秀吉が指揮した美濃鵜沼城(岐阜県各務原市)攻めが初陣。その後は秀吉の近江浅井攻めに参陣。中国経略では、その右腕として主に山陰方面を担当。天正5(1577)年2月に紀伊雑賀攻め。同天正5年10月に但馬攻略を任された。

秀長を主将として副将に前野長康、その他に宮部継潤・生駒親正・堀尾吉晴・藤堂高虎ら総勢3200。但馬に入って早々に岩洲城・竹田城(兵庫県朝来市)を降し、生野銀山を接収。竹田城を拠点とした。

また、天正8(1580)年に但馬を平定して但馬出石城主となった。秀吉とともに因幡に侵攻し、翌天正9年10月に鳥取城を落とした。

豊臣一族で優秀だったのは秀長だけ

賤ケ岳の合戦の後、播磨支配を任され播磨姫路城主。前野長康・蜂須賀正勝・神子田正治・桑山重晴などの播磨・但馬の支城に置かれた豊臣家臣を与力としたらしい。天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦に参陣。

翌天正13年3月、秀長は甥の秀次とともに副将として雑賀根来寺ねごろじ攻めに参加。和泉・紀伊の2カ国を加増された。同天正13年6月の四国征伐では、秀吉が病気のため、秀長が代行として主将を務め、3万の軍勢を率いて淡路島から阿波(徳島県)に渡った。

ここで副将の秀次軍3万と合流。この他に宇喜多秀家ら2万3000の軍が讃岐(香川県)、毛利輝元ら3万の軍勢が伊予(愛媛県)から土佐(高知県)の長曾我部元親ちょうそがべもとちかを攻めた。さすがの長曾我部家も三方からの攻撃は想定外で、あっけなく降参を余儀なくされた。秀長はその功で大和一国を与えられ、郡山(奈良県大和郡山市)城を本拠とした。

同天正13年10月に従三位参議に叙任。翌天正14年10月に権中納言、天正15(1587)年8月に従二位権大納言に叙任され、俗に「大和大納言」と称される。これと併行して、同天正15年2月から7月まで秀吉の九州征伐に参陣した。しかし、帰陣後の11月に京都で発病。闘病生活に入り、翌天正16年に甥・秀保ひでやすを養子として、天正19(1591)年1月に死去した。享年52。

和田裕弘氏は「秀吉の一族にはめぼしい人材がいなかったとされる。(中略)唯一の人材は、出色の出来だった弟の小一郎長秀(のち秀長)だけである」と評している(『織田信長の家臣団』)。

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