子供に「おかえり」を言いたくて…2児の母が選んだ「神戸初の意外な仕事」 150年続く「地元のソウルおやつ」とは

子供に「おかえり」を言いたくて…2児の母が選んだ「神戸初の意外な仕事」 150年続く「地元のソウルおやつ」とは

神戸市民なら誰でも知っている銘菓の守り手

神戸銘菓の「瓦せんべい」。かつて市内に80軒以上あった専門店は、今では14軒にまで減少した。そんな“懐かしのおやつ”の灯を絶やすまいと立ち上がったのは、2児の母・和田絵三子さん。2024年、神戸で紡がれた150年超の歴史で“初の女性職人”として「えみり堂」を開業した。その原動力は、「子どもに『おかえり』と言える仕事がしたい」という、ごく普通の母親としての願いだった。フリーライターの川内イオさんが取材した――。

史上初の女性手焼きせんべい職人

「ここのせんべい、おいっしいぞ。食べ始めたら、やめられへん。車の助手席に置いとくやろ。仕事終わりに、ポリポリ食べんねん」

70代にして現役バリバリの大工さんは、満面の笑みを浮かべて、「えみり堂」を後にした。いつもたくさんのおせんべいを買い、周りの人に配って歩いているそうだ。

大工さんが絶賛する「せんべい」は、いわゆる普通のおせんべいではない。洋菓子の街・神戸で、「ソウルフード」ならぬ「ソウルおやつ」として市民に愛されている瓦せんべい。カステラと同じ小麦と卵、砂糖で作られ、「洋風せんべい」とも称される。

1868年、日本の開国によって神戸に外国人居留地が設けられ、卵、牛乳、小麦などの食材が流通するようになった。それらを使って作られたのが瓦せんべいで、当時は「贅沢せんべい」「ハイカラせんべい」と呼ばれていたという(神戸煎餅協会HPより)。

特徴は、四角い瓦を模したせんべいに、絵柄が焼き入れされていること。ひとつ2、3万円でオリジナルの焼き印を作ること可能で、学校の校章や企業のロゴマークなどを焼き入れて、手土産として渡す文化が今も残る。

最盛期の昭和初期には、神戸市内だけで80軒ほどの瓦せんべい店があったそうだが、高齢化や人手不足、さらに洋菓子の人気にも押されて現在は14軒まで減少。風前の灯火ともいえる状況で、ひとりの女性が注目を集める。

神戸出身の、和田絵三子さん。150年を超える神戸の瓦せんべいの歴史のなかで、史上初の女性手焼き職人として、2024年3月、神戸市兵庫区にえみり堂を開いた。

もともと、瓦せんべいに特別な思い入れがあったわけでもない。「子どもが帰宅する時に迎えてあげたい」という母親らしい気持ちからたどり着いたのが、せんべい職人の道だった。

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筆者撮影 瓦せんべい

ですから長時間デスクワークしてモヤモヤしているときにリフレッシュするような役割です。ある意味、攻撃的リフレッシュなので、使い方によってはかなり有効です。

しかし、本当に溜まった疲労を回復したいのなら、日本の一般的なサウナだとかなり工夫しないと難しいのです。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の日常

和田さんが生まれ育ったのは、えみり堂がある兵庫区。阪神大震災後の区画整理で現在は整然とした街並みだが、1979年生まれの和田さんが子どもの頃は、下町の雰囲気だった。

「昔は、家の周りに個人商店がたくさんありました。瓦せんべいを売るお店もあちこちにあって、お気に入りは、いつも祖母や母親と買い物に行っていた市場のなかにあるお店です。そこでよく、瓦せんべいや野球カステラを買ってもらいました」

野球カステラも、神戸発のおやつだ。日本にベースボールが伝わったのが、1872年。それから43年後の1915年には、全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が始まる。日本一を決する初めての大会はおおいに盛り上がり、野球熱が一気に高まった。

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2025.10.25

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