米軍のくだらないプライドで40万人が亡くなった…日本中を焼き尽くした「焼夷弾爆撃」の耳を塞ぎたくなる真実 #戦争の記憶
それでは空襲で命を失った人たちが報われない
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太平洋戦争末期、米軍による日本空襲で40万人もの市民が犠牲となり、67の都市が焼き払われた。歴史評論家の香原斗志さんは「実は、1940年6月の時点で、アメリカ戦略爆撃調査団は、日本の戦争遂行能力を奪うのに、都市の焼夷弾攻撃にはあまり意味がないと主張していた」という――。
都市の無差別爆撃は事実上の大量虐殺
8月15日に終戦80年を迎えるが、戦争最後の年となった1945(昭和20)年、日本中が米軍機による空爆を受け、67の都市が焼け野原になった。原子爆弾が落とされた広島と長崎を除けば、主に使われたのは焼夷弾だった。これは簡単にいえば、攻撃目標を効率よく焼き払うために、ガソリンなど燃焼力の高い物質を詰め込んだ爆弾だった。
そんな爆弾による都市の無差別爆撃は、計り知れない甚大な被害をもたらした。毎日新聞の調査では、太平洋戦争末期に大規模空襲があった107の自治体が把握しているだけで、原爆を含む空襲の犠牲者は38万7000人におよぶ。一般には60万人ほどが犠牲になったといわれ、原爆による犠牲者が20万人超だとすれば、焼夷弾による犠牲者は40万人ほどということになる。
この非人道的な爆弾による被害は、人的なものだけではなかった。世界遺産級のものも含め、貴重な歴史的、文化的な遺産も数知れぬほど失われた。
焼夷弾による都市の無差別爆撃は、どうひいき目に見ても、事実上の大量虐殺と捉えるほかないが、そんなことがなぜ、堂々と行われることになったのだろうか。
無防備な都市への空爆は禁止だったが
第1次大戦後のワシントン会議で定められた「空戦規則」では、非戦闘員である一般市民を対象にした空爆は禁止された。それは条約化こそされなかったが、第2次大戦の勃発時には、各国の指針として機能していた。
1938年9月には国際連盟総会が「戦時における空爆からの保護」を決議し、アメリカのルーズベルト大統領も1939年9月、市民や無防備な都市への空爆を行わないように、各国に確認を求めている。1940年春ごろまでは、各国も同意する態度を公表していた。
きっかけはドイツ空軍の行動だった。1940年5月にオランダのロッテルダムを100機の爆撃機で襲い、爆弾と焼夷弾で市の中心部を壊滅させた。これに反応したのが対岸のイギリスで、英空軍はドイツ最大の工業地帯、ルール地方を爆撃。その際、軍需産業の攻撃が目標とされながら、都市の爆撃もやむをえないと、暗黙に了解がされていたという。
その後、英独で報復の応酬が重ねられつつ、都市の無差別爆撃が常態化していった。とくに当時の爆撃機は、目標の発見も、目標に正確に爆弾を落とすことも困難だったので、爆撃の精度が問われない「地域爆撃」という名の無差別爆撃に傾注していくことになった。英空軍もチャーチル首相に地域爆撃の強化を進言している。
その後の日本への空爆につながる実践が、1942年5月のケルン爆撃だった。爆弾と焼夷弾で都市を焼き払い、消防や救護活動も無力化しようという試みで、915トンの焼夷弾と840トンの爆弾が落とされた。