マスコミからの集中砲火で割れるような頭痛…苦しみに耐える稲盛和夫に「赤飯を炊け」と告げた心の師の真意
Profile
名経営者と呼ばれる人たちにも絶望的な時代があった。果たしてどのように乗り越えたのか。ベストセラー作家が解説する。
功成って名を遂げたカリスマ経営者は、才能が優れ、努力を惜しまなかったばかりでなく、「運も強い」とよく言われます。しかし、持って生まれた「運のよさ」があったとしても、名経営者は、自分で「運を切り開く術」を身につけていたと、私は考えています。
その秘訣が「人脈づくり」。文芸評論家の谷沢永一氏は、「幸運は人の形をしてやってくる」「運のいい人とは他人に好かれる人」とも述べています。つまり、日頃から人付き合いを大切にし、良好な人間関係を築いている経営者は、従業員や取引先といったステークホルダーに支持され、成功しやすいのです。
とりわけ、経営者の真価が問われるのは危機に陥ったとき。ピンチになると、経営者を取り巻いていた人の多くが離れていきます。しかし、人脈に恵まれた名経営者は、必ずと言ってもいいほど、救いの手を差し伸べる人が現れ、復活のチャンスを得ているのです。松下電器産業(現パナソニックHD)の創業者、松下幸之助氏はその典型です。
伝説の経営者といえば、真っ先に名前が挙がる松下氏も、波瀾万丈の人生を歩み、多くの苦難を乗り越えてきました。松下氏が人生最大の危機に直面したのは、戦後間もなくのこと。1946年に松下家は「財閥家族」、松下電産の関連企業32社も資産処分などが自由にできなくなる「制限会社」に指定され、追い打ちをかけるように、松下氏を含む常務以上の役員が公職追放されました。
GHQ(連合国軍総司令部)は、戦時中に軍需産業として軍部に協力した松下電産を、解体しようと目論んだのです。松下氏自身、生活資金にも事欠く始末で、社員が冷蔵庫の中を見たらサツマイモの蔓しか入っていないという時代があったそうです。
そんな窮地にあった松下氏に、親交が深かったサントリー創業者である鳥井信治郎氏は、ポンと大金を貸したそうです。松下氏は大阪の花柳界でもモテていたので、芸者連も金融機関の動向を知らせるなど、金策に駆け回る松下氏をこぞってバックアップしました。義弟の井植歳男氏(三洋電機創業者)と並んで、松下氏の「右腕」と言われた高橋荒太郎氏(後の松下電産会長)も、松下電産解体を回避するため、寝食を忘れて奔走、GHQへの陳情は100回近くにも上りました。
特筆すべきなのは、松下電産労働組合も、松下氏を熱烈に支援したことです。当時の経営者と労組は激しく敵対しており、労組が「社長のクビ」を要求するケースも珍しくありませんでした。そうした中、労組組合員の93%が、松下氏の公職追放解除の嘆願書に署名したのです。GHQも、そんな松下電産労組の動きを無視できなかったのでしょう。松下氏は、47年5月に公職追放を解除され、49年11月には、松下家も財閥家族指定を解除されました。
では、松下氏は、どうしてそれほど周囲から愛されたのでしょうか? 松下氏の人柄がうかがえるエピソードを、いくつかご紹介しましょう。
シャープは長年、松下電産と鎬を削り、シャープ創業者の早川徳次氏も、松下氏とは「仇敵」のような間柄と見られていました。ところが80年に早川氏が逝去した際、松下氏は誰よりも早く、早川家に弔問に訪れたのです。たとえ商売敵でも、経営者として「尊敬していた」ことを公の場で示したわけで、松下氏のそうした態度に、各界要人の多くも感銘を受けたと言います。
一方で、松下氏は、部下にも気さくに話しかけるなどして、従業員から慕われていました。戦後すぐ、松下電産でも労組が結成されたのですが、松下氏はなんと結成大会の最後に壇上に上がり、祝辞を述べたのです。しかも、組合員におもねることなく、労組の「正しい要求なら聞きますが、無理な要求は聞きません。これだけははっきりと申し上げておきます」ときっぱりと口にしたのです。敵陣に単身乗り込み、経営者としての矜持を示した姿を見て、組合員も「大した度胸や。ウチの大将はさすが、器が違う」と舌を巻き、松下氏が退場する際には割れんばかりの拍手が会場を包んだと言います。それが、公職追放解除の嘆願運動の原動力になったことは、言うまでもありません。
松下氏は、「今太閤」と呼ばれる大出世をしたわけですが、同時に豊臣秀吉さながらの、人の心をつかみ、強運を呼び込む達人でもあったわけです。