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YouTubeでも学べる時代になんのために学校に行くのか【インクルーシブ教育】
誰も排除せずすべての子どもを包み込む「インクルーシブ教育」。国籍や人種、宗教、性差、経済状況、障がいの有無などにかかわらずすべての子どもたちが、地域の学校に通うことを保障するための教育改革が求められている。本記事では東京大学の小国喜弘教授に話を伺い、インクルーシブ教育やそこから見える学校教育のあり方について考える。
インクルーシブ(inclusive)とは「包摂的な」という意味を持ち、インクルーシブ教育とは、誰も排除せずにすべてを包み込む教育のこと。世界的にインクルーシブ教育が推進されているが、日本は進んでいるとはとても言えない状況だ。
本記事では、インクルーシブ教育を研究する東京大学大学院教育学研究科の小国喜弘教授に話を聞いた。
インクルーシブ教育について考えることで、令和時代に望ましい学校教育のあり方や、子ども時代に本当に必要な経験とは何かが見えてきた。
奴隷制の是非を議論する人はいないのに、インクルーシブ教育の是非を議論するのはなぜ
ーーインクルーシブ教育とは日本ではまだあまり耳なじみがありませんが、どのようなものなのでしょうか?
小国先生:インクルーシブ教育とは、国籍や人種、宗教、性差、経済状況、障がいの有無にかかわらずすべての子どもたちが地域の学校に通うことを保障するために、教育を改革するプロセスです。
2022年、国連は日本に対して、障がいのある子とない子を分離した教育をやめるように勧告し、すべての子どもがともに学ぶインクルーシブ教育を進める必要があると指摘しています。
日本ではそれ以前に、1994年のサラマンカ声明への参加や、2014年の障害者権利条約批准など、インクルーシブ教育につながる取り組みはすでに開始されていました。しかし、実際には障がいのある子どもは特別支援学校や特別支援学級に通うことが一般的で、分離された状態が長く続いていました。
ーーインクルーシブ教育を進めるうえで必要な考え方を知りたいです。
小国先生:まずは、公正な社会をどのように作るのかということを考えたいです。たとえば1947年に男女共学が実現しました。それまでは小学校高学年から男女に分かれていたので、教育者や親からは「男女いっしょにすると男子の学力が下がる」など、反対の声があがりました。現代の価値観で考えるとこれは差別だと思いますが、当時は誰しもが差別だとは考えなかったのです。
インクルーシブ教育もこれと同じようなことなのかと思います。国連で議論されたことですが、インクルーシブ教育の利点について議論することは、アパルトヘイトや奴隷制の廃止の効果について議論するのと同じくらいおかしいと。
アパルトヘイトや奴隷制度を廃止したほうがいいということは当然すぎて、議論としては成り立たちませんよね。それなのに、インクルーシブ教育をやったほうがいいのか、やらないほうがいいのかという議論は成り立つように感じてしまう。「公正さ」の意味をあらためて考える必要があるのかなと思います。
そして、より弱い人に合わせてルールが変更されることは、他の人にとっても生きやすさにつながるということを知るべきです。インクルーシブ教育がうまく機能している学校では、先生と生徒が「今ここでいちばんしんどい子が、いちばん大切にされる子だ」という信念を共有していて、他人のために自分ができることを考える習慣がついています。
インクルーシブ教育が子どもたちの心や学力に与えること
ーーインクルーシブ教育を行うことによって、むしろ学校全体の成績が上がったという話を聞いたことがありますが、本当なのでしょうか?
小国先生:アメリカの大規模調査では、インクルーシブ教育によって平均成績が上がったというデータは事実としてあります。背景にはふたつの要因があります。
まずは、子どもが安心して学べるようになるということ。障がいの有無や学習の理解度により支援学級などに振り分けられるという状況を見ている子どもたちは、「次は自分が振り分けられるかもしれない」という潜在的な恐怖を持ち、安心できる環境にいるとはとてもいえません。
みんながいっしょの空間で過ごすインクルーシブ教育を受けるようになると、いつか自分も排除されるかもしれないという潜在的な不安がなくなり、安心して学びに集中できるようになることで、結果的に学力向上につながります。
二つ目に、子ども同士での学び合いが増えること。先生からの一方的な授業は一見理解が進んだように見えても、実は短期記憶にしかとどまらないことがあります。友だち同士で試行錯誤しながら学び合うほうが、実は効果的なことが多いのです。
ーーインクルーシブ教育が行われると、子ども同士の学び合いが増えるのでしょうか?
小国先生:はい。2019年に東大の社会科学研究所とベネッセが小学校高学年から高校3年生までを対象に行った共同リサーチで興味深い結果が出ています。
「友だちと勉強を教え合うか」という問いに対して約40%が「まったくしない」「あまりしない」と回答し、「考えても分からないことは親や先生に聞くか」という問いに対しては約30%が「まったくしない」「あまりしない」と回答しています。つまり、わからなくても人に頼ることが苦手な子どもがこれだけいるのです。
一方でインクルーシブ教育が行われる空間は、安心して自分の弱さも見せることができる空間です。それが、わからないことはわからないと言い、友だち同士で教え合う姿につながります。
大人の介入を減らして子ども同士で学び合う環境は、もちろんトラブルにつながることもあるでしょう。しかし、なんでトラブルが起きたのか丁寧に考え合うことのほうが子どもにとってよほど大切。社会に出ても思惑の違いでいさかいが起きたりトラブルに発展したときに、どうおさめるかというのはすごく重要な力ですよね。
リスク管理を重視し、トラブルが起きないように先生が見守りすぎていたり、なにかあったらすぐに仲裁をするような環境は、子どもの育ちをつぶしているのかもしれません。たとえケンカしてしまっても、それをきっかけに仲良くなるような経験も必要だし、そのような経験が安心して学べることにもつながると思います。
参考文献:東京大学社会科学研究所、 ベネッセ教育総合研究所「子どもの学びと成長を追う: 2万組の親子パネル調査から」(勁草書房)
多くの日本の教育では、姿勢を正して緊張させて不安感を与えて、わからないことを聞いたら恥ずかしいというような観念を植え付けてしまっています。インクルーシブ教育をむずかしく考えてしまうかもしれませんが、他人同士がどうやっていっしょに暮らしていくかという話で、本来は専門性がいる話でも知識がいる話でもないのです。
ーーなるほど……。インクルーシブ教育に反対する人は、どのようなことを懸念されるのでしょうか?
小国先生:やはり自分の子どもの学力が落ちるのではと懸念される保護者もいます。しかし、インクルーシブ教育を受けた卒業生がどのような大人になっているのかを伝えたり、実際にあなたの子どもはインクルーシブ教育を受けてから人間的に成長しているという具体的なエピソードを話したりすると、ほとんどの保護者は納得されるようです。
多様な子と同じ空間で生活をするなかで子どもの経験は豊かになり、そのような話を食卓ですることで、親子のコミュニケーションが増えたという事例もたくさん聞きます。
人は多様な社会でしか生きられない。原体験は学校で
ーーギフテッドの子も学校が合わない、暮らしにくいと聞きますが、それも同じことかもしれませんね。個性がどの方向に振れているかの違いなのかなと感じました。
小国先生:そうですね。インクルーシブ教育が進んでいる大阪府豊中市の小学校で、ギフテッドの子が授業がつまらなくて仕方ないという事例が実際にありました。先生はクラスメイトに、「あの子はもう授業が全部わかるから、退屈すぎてしんどいんだ。どうしたらいいと思う?」と聞いたそうです。
すると子どもたちは「みんなといっしょにいることが大事。授業中につまらなかったら、好きな本を読んでいたらいいよ。全然かまわない」と受け入れ、ギフテッドの子は楽しく学校に通えるようになったそうです。
一方で授業がわからなくてしんどい子は、校長室に行ってもいいし、保健室に行ってもいい。どこにいても話を聞いてくれる大人がいて、子どもたちが安心できる居場所があるんですね。
ーー保護者としてインクルーシブな社会を子どもに伝えることは、必要なのでしょうか?それとも大人はなにも言わずに見守るのがよいのでしょうか?
小国先生:子ども時代は、たとえば私立の学校に通っていたりすると、自分と近い偏差値を持つ同質性の高い集団のなかだけで暮らしていくことはできるでしょう。ただ、そのこと自体が人生のなかでは稀な期間だということは、自覚させてあげる必要があるかもしれません。社会では、同質性の高い人たちだけに囲まれて生きていくことはできませんから。
たとえば東京大学の卒業生も百貨店に勤めてマネジメントの立場に就いたりするわけです。パートで働く人たちは決して似たような境遇で生きてきた人々だけではないし、働く動機も含めてそれぞれが全く違う人生を背負っている。そのような人たちのリーダーとしてどうやっていくのか、はじめは頭を抱えるわけです。
商社に勤めた人は、入社後すぐに農薬の担当になり、全国の農家さんをレンタカーで一軒一軒回っていました。
一歩社会に出ると自分の意思だけで関わり合う人を選ぶことはできません。まったく違う性質や背景を持つ人たちとも、関わり合わずには生きられません。そう考えると、そもそも私たちはインクルーシブな社会のなかでしか生きていくことはできないのです。
私の同僚は子どもを新宿区内のニューカマーの子たちがたくさんいる小学校にあえて通わせていました。「荒れている」という評判のある小学校でしたが、友人は「子どものときにそのような体験をしないと、この子たちは生きていけないよね」と言っていて、本当にそのとおりだと感じました。
幼少期から多様な人たちと付き合いながら、どうしたらみんなが過ごしやすいのかを考える体験は、形を変えて人生の役に立つのです。
勉強は他の場所でもできる。令和時代に求める学校の役割とは
ーーこれまでのお話を聞いて、子どもが学校で何を学んでほしいのかを考え直さないといけないのかなと感じました。
小国先生:本当にそのとおりで、お金があれば塾で勉強はできるし、やる気があればYouTubeの無料動画でも勉強できる時代です。そう考えると、学校でなければできない学びは他にある。
たとえば、昔は学校が終わると近所の遊び仲間とキックベースやドッジボールをして遊んでいました。そのなかには障がいのある子や身体を動かすのが苦手な子もいたけれど、いっしょに楽しむためにはルールをどう変えたらいいのか、そのようなことを自然に工夫していました。
今は、放課後に近所の子と遊ぶことも減り、さらに親がいつでも子どもを見てないといけないような風潮も強まっていくなかで、なかなか自由に遊んだり創意工夫したりすることができません。
昔は学校でしか勉強ができなかったけれど、今は勉強は他のところでもできる。逆に、昔は放課後の自由な過ごし方のなかでできていた大切な経験が、今は学校以外にできる場所がありません。だからこそ、学校の役割はすでに勉強が主ではないはずなのに、そこに気が付いている大人は少ないでしょう。
ーー自分より生きにくい人といっしょの空間で生活し、その人が生きやすくするにはどうしたらいいのかを考える。そのことで、自分が辛いときにも声をあげやすくなるのでしょうか?
小国先生:大いにあると思います。ある研究者は「孤独と孤立は違う」と言っています。孤独というのは感情であり、自己に向き合うことでもあるので悪いものではありません。一方、孤立というのはひとりぼっちで、他者に依存することができない状態。
孤独と孤立の大きな違いは、困ったときに他者に頼ることができる状況なのかそうではないのか、ということだとその研究者は言っています。障害学でも、「自立するということは、実は他者に依存すること」だと言われています。
そして、先ほどもお話しましたが、現代の子どもは困ったときに家族や友だちに助けを求めることが苦手です。子ども時代にはイヤなことをイヤだと言ったり、困ったことがあれば周りに相談することができるという、一種の信頼感情を経験することが本来はとても大切です。
インクルーシブ教育を行う大阪府豊中市のある小学校の校長は、「人間は自分でできることは自分でやったほうがいい。でも、できないことは人に頼ったらいい。それを学ぶのが学校だ」と明言していましたが、そのような考えを当たり前だとする世の中にしていきたいですね。