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【中村圭志】宗教はタブーではなく相手を知ること
子どもをとりまく環境が急激に変化している現代。小学校におけるプログラミング教育と外国語教育の必修化、アクティブ・ラーニングの導入など、時代が求める人材像は大きく変わろうとしている。この連載では、多様化していく未来に向けて、これまで学校教育では深く取り扱われなかったジャンルに焦点を当て多方面から深掘りしていく。今回は、宗教学者の中村圭志さんに話を聞いた。
「あなたの信仰している宗教は何ですか?」と聞かれたとき、はっきりと答えられるだろうか?
「宗教は怪しいから関わってはいけない」「相手の宗教をたずねるのはタブーだ」と思っている人も多いだろう。
しかし、私たちが外国人とふれあうときには、言語の違いだけでなく、あいさつや食事の仕方など、宗教によって異なる文化を目の当たりにするはずだ。
そんなとき、相手の宗教を知らないことで、無意識に相手を傷つけたり、トラブルになることもあるかもしれない。今後、さまざまな国の人々と仕事をするであろう今の子どもたちには、相手の宗教を理解し、尊重することが必要だ。
世界には、多様な宗教上のルールやマナーの元に生活している人々が存在している。まずは、常識として知っておきたい、5つの伝統的な宗教を見てみよう。
なぜ私たちは宗教を怪しいと思うのか
世界で最も信者数が多いのが、キリスト教とイスラム教。どちらももともとは最古の宗教、ユダヤ教から生まれたものであると知る人は少ない。日本人になじみのある仏教も、実はヒンドゥー教と同じインドのバラモン教から生まれたものだ。
このように、歴史的につながりがある有名どころの宗教でも、誰を信仰しているか、どんな教典の教えがあるかということを比べただけでも大きな違いがある。
この違いを、私たちは知っていただろうか?海外では、国や人によってさまざまなこれらの宗教を、なんとなく“怪しい”“怖い”と、私たちは敬遠してしまうところがある。
宗教学や宗教史学を専門に研究している中村圭志さんは、日本人が宗教を敬遠するようになった背景には、さまざまな理由があると話す。
「まずひとつは、日本の歴史的な影響です。
もともと日本の民俗宗教は神道というものです。神道とは、自然のものすべてに神が宿る“八百万の神”を信仰する、日本古来の宗教のことを指します。
その後、インドから中国を経て仏教が入り、これが歴史の中で大きな役割を果たしてきたのですが、明治維新から第二次大戦まで、日本の国家が神道を宗教として国民に強制した『国家神道』という制度がありました。
国家が国民統合のために、とにかく神社に行きなさいと強制して、ガチガチに宗教をやっていたんです。
しかし、第二次世界大戦に敗れたことで、神道も仏教も、信用が失墜してしまったんです。戦争で全部ちゃらになった。学校でも宗教に関しては、タブーなジャンルとして、一切口をつぐむようになってしまったんですね。
戦後は、アメリカナイズとともにキリスト教の影響力が高まって、仏教・神道系のさまざまな新宗教が立ち上がり、第2次、第3次宗教ブームが起こっていきます。1980年代は、ニューエイジと呼ばれる、心霊や死後の世界を扱う精神世界系の宗教がものすごくブームだった。
この時期には、宗教=怪しいもの、という意識と、宗教に未来を託すような意識が、相半ばしていました。
しかし、1990年代の中ごろにカルト的なオウム真理教が地下鉄にサリンを撒くという事件が起こり、2001年にはイスラム教徒によるアメリカの同時多発テロなど、いろんな事件が起きた。当然マスコミが取り上げるのは、そういう宗教が絡んだ不祥事ばかりでした。
これらの事件によって、宗教=悪いものというイメージが定着したんです」
最近でも、イラクとシリアを中心にしたイスラム過激派組織、イスラム国(IS)による事件があって、イスラム教徒=テロリストのイメージが強い人も多くいるだろう。
宗教の歴史をみると、同じユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教は、ともに唯一の神ヤハウェを信仰する一神教。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教の聖地はエルサレムであり、この聖地奪回を巡って、キリスト教の十字軍がイスラム教徒に戦争をしかけたという歴史が、イスラム過激派によるテロの口実にもなっている。
しかし、世界のイスラム教徒は2017年の時点で約17.5億人。穏健なイスラム教徒が過半数であり、過激派組織は一部の少数派にとどまっている。イスラム教徒=テロリストという認識は、私たちがレッテルを貼ったネガティブ・イメージに過ぎない。
「また、欧米などでは、地域の教会についてのニュースを日常的に報道するのに対し、日本では、不祥事以外のもの、例えば、地域の神社や寺が何をやっているかなどはあまり報道されません。
海外の宗教的な動きについても、日本人にはわからないからという理由で翻訳せずに省いて出版することもしばしばあります。
そういったことからも、日本人は宗教について知らないという現状があるのかもしれません」
さまざまな宗教がどのような歴史で成り立っているか、信仰する神やその教えが宗教によってどう違うか、そして、世界で起こっている問題が宗教と関連していることを、子どもたちは学校で習うだろうか。
日本にいるから関係ない、と思うのではなく、子どもの未来を見据え、学んでいくべきことかもしれない。
宗教はもともと“地域の文化的な習慣”
その宗教ならではの生活習慣がある
私たちが宗教を“怪しい”“怖い”とタブー視するようになったのは、日本のこれまでの歴史と宗教が絡んだ事件の記憶からきているものだということは分かった。では、私たちは、異なる宗教を持つ人をどう捉えるとよいのだろうか。
中村さんは、異なる宗教を持つ人と接するにあたり、宗教をふたつの視点で考えることが必要だと話す。
「みなさんがよくイメージする、神仏の奇跡的な救いを信じて、一生懸命祈ったり、ひとつの教えを集中的に信仰したりするのは濃いレベルの宗教です。
しかし、クローバル化していくこれからにおいて大切なのは、薄い宗教=人々の知識や習慣として受けられているような宗教的文化。宗教を理解する上では、この両方の視点を使い分けるとよいでしょう。
薄い宗教とは、人々の生活習慣としての宗教。どんな民族にもあるんです。たとえばキリスト教だったら、日曜日には教会に行くとか、イスラム教だったら、聖地の方角に向かって毎日5回礼拝するとか、一部に女性が髪や肌を隠す習慣があるとか。
一方で、濃い宗教となると、果たして神はいるのか?とか、聖書に書いてあることは結局のところ正しいのか?と議論されているようなことになるんです。ここについては、私たちは否定も肯定もできません。結局は“X(未知)”だから」
――私たちは、宗教と聞くと特定の神を熱心に信仰している風景をイメージしますが、それは濃い宗教の方なんですね。
「それぞれの宗教には教典があり、神仏のものとされる教えがあるので、思想に打ち込む信仰のイメージが強くなりがちですが、実は、どんな宗教も、特定の地域の歴史の中から生まれた習俗や習慣のようなもの。
世界は大きくみて4つの宗教文化圏に分かれていて、アメリカ大陸とヨーロッパはキリスト教が占め、西アジアと北アフリカはイスラム教。インド半島はヒンドゥー教、東アジアは仏教、儒教、道教の混合地帯です。
宗教の生まれには民族特有の気候や風土などが大きく関わっていて、地域性や民族性を体現している文化的な伝統の一種でもあるのです。
人々がどんな宗教で、どんな神を信仰しているかということよりも、それらを背景に、どんな習慣やルールの中で日々生活しているか。
これらを知った上で、コミュニケーションをとることが私たちのできることですよね」
日本人の生活にも宗教がある
「地域的なもの、生活習慣としての薄い宗教のレベルで言えば、私たち日本人だってそうです。
伝統的に、中国人、韓国人、日本人などは、仏教、儒教、道教を、日本人の場合はさらにこの神道をごちゃまぜにして信仰しています。
この東アジア特有のごちゃまぜな伝統の影響で、日本人が自分の宗教が何かということははっきりせず、宗教から来ているものだと知らずに行っている習慣がたくさんあります。
たとえば、正月の初詣。毎年約9000万人が集まると言われています。これは、海外の人からは大規模な宗教行事に見えているわけです。
さらに、地域の祭りで神輿をかついだり、葬式などの儀式も当たり前のようにやるけれど、何の神様に向かっているかはみんな知らない。
食事のときに『いただきます』『ごちそうさま』と言う習慣は、八百万の神、つまりお米や野菜、肉や魚の命に感謝するという神道の考えからきています。
日本の習い事に、茶道や華道、柔道や剣道など名前に“道”がつくものが多いのも、宗教による儀礼とほとんど区別がつきません。
他にも、子どもたちは学校で掃除をしますが、これはもともと、寺子屋の小坊主が掃除をするという仏教の修行が根付いたものといわれているんです。あとは、先輩と後輩の上下関係を重んじるのは儒教の影響が強い。
同じように、欧米人が教会に通ったり、食事の前に祈ったり、アメリカの大統領が就任式で、聖書に手をあてて宣誓しているのも、私たち日本人と同じで、習慣だったり、政治的行動だったりするんです。
それは文化的な慣行であって、本気で神仏を信じているかどうかとはほとんど関係ない。
――そういう意味では、欧米の人も、みんながみんな熱心なキリスト教徒というわけではないんですね。
無宗教といわれる日本人
宗教を怪しいと思うあまり、関心をなくし、他人に対しても宗教の話題を避けるようになった私たちでも、日常生活の中に、自然と神道や仏教や溶け込んでいる。そしてその言動は、外国人から見ると、立派な宗教的ふるまいだった。
それでも私たちは、自分の宗教に対する自覚が薄く、海外で「宗教は何ですか?」という質問をされたときに、「無宗教です」と答えてしまう。なぜ、自分の宗教に無頓着になってしまうのだろうか?
「日本もアメリカも、同じように宗教に無関心な人は一定数いるんです。では、なぜ日本人の場合は、自分の宗教をはっきり言いにくいかというと、宗教の様式の違いです。
キリスト教やイスラム教は、イエス・キリストやアッラーという単一の存在を生活の中心に置く『一神教』で、シンプルですから『私は〇〇教の信者だ』と自覚しやすい。
一方で日本は、仏教以外にも神道や儒教、道教などさまざまな宗教がごちゃまぜになって存在している。
その上、それぞれの宗教にさまざまな神が宿る『多神教』で、無意識的になじんでいく儀礼を好むため、そういった点でも違います」
こういった文化的伝統の違いを理解すると、宗教によって方向性が違うということがわかってくる。宗教のあり方はさまざまで、日本ならではの宗教を知っておくことが、他の宗教を深く理解することにもつながるのだ。
「自分に合ったものや、家の伝統に従っていろいろなものが混在しているのが当たり前の日本人には、自分の宗教を持つ/持たないという概念には、ぴったり合わないんです。
でも、文化や習慣として自分たちがやっていることが、実は宗教によるものなんだということは自覚しておくといいですね」
子どもたちに必要な宗教の教養
生活習慣の違いを理解する
――日本人が外国人と接するときに、気を付けられることはどういったことでしょうか。
「宗教を知ることが、相手を知る第一歩になります。儀礼や習慣、戒律が宗教によってさまざまですが、一番わかりやすいのは食べ物でしょう」
「たとえばイスラム教が豚肉を食べられないことはよく知られているけど、イスラム教はユダヤ教から派生しているものなので、大元のユダヤ教の人々は豚肉以外にも食べられないものはたくさんある。これはあまり知られていません。
とはいえ、ユダヤ教は最古の宗教ということでよく取り上げられますが、信者であるユダヤ人の人口は非常に少ないし、彼らは自分たちが少数派であるという自覚があるので実際にはあまりトラブルになりにくいでしょう。
キリスト教や仏教は食べ物のタブーがほとんどないので、実質、気を付けておくべきはイスラム教とヒンドゥー教、そして一応ユダヤ教だと思います」
――食事ひとつとっても、知らないでいると相手を困らせたり、失礼をしてしまうことがあるのですね。
「これから始まるオリンピックもそうですが、知人や友人の外国人を日本でもてなすとき、外国人とともに仕事をするとき、彼らのふるまいや生活の中での習慣は宗教からくる、文化的なものです。
宗教にタブーなイメージを持つ日本人は、他人に対しても話題に出さないようにしてしまいますが、コミュニケーションを閉ざしてしまえば、相手の宗教文化は当然知ることができない。相手が困っていても助けられないどころか、気付くこともできなくなってしまうんです」
日本に住んでいても内なる国際化が進んでいる現代。観光客だけでなく、住んでいる外国人も多い。子どものクラスメイトや友人、家族など身近に外国人は多くいる中で、相手の宗教について考えたことのある人は一体どれくらいいるだろうか。
異なる価値観を尊重する
「あとは、日本人は何でもビジネス優先で、時間で区切って予定を詰める傾向があると思うのですが、外国はもっと違った原理で時間を管理しているんだ、ということも知っておくといいかもしれません。
たとえばイスラム教は、創始者のムハンマドが生まれた聖地、メッカのある方角に向かって1日に5回、礼拝をするのですが、そのための時間や場所を確保してあげるとかね。
宗教によっては、自分たちと違う時間の流れで生活している人もいるんだな、と分かってあげることも大切です」
宗教は国で決めつけず個人に聞く
海外の宗教トレンドは“無神論”
「中世の時代にさかのぼれば、欧米では教会が、日本では神社仏閣が、社会を仕切っていたわけです。
でも、それからどんどん科学やテクノロジーが進化し、人も国家の決めた法律や、インターネットの情報に沿って動くようになると、宗教というものの力はどんどん落ちてくるんですよ。
それを示す分かりやすい例として、今の欧米の宗教トレンドは“無神論”なんです。これによって、現代の宗教地図は激変している」
――無神論とはどのような考え方なのでしょうか。
「科学的に神がいないということを証明してしまうんです。心理的、社会的には神がいるかもしれないけど物理的にはいないという考え方です。
インターネットが普及した情報社会では、科学の発展に伴って、宗教のあれこれの教理に矛盾を感じる方も多くなっていったんですね。
無神論が活発に議論されるということは、歴史や伝統のある宗教のあり方や存在意義が再び問われているとも言えるでしょう。この10年間で欧米で一番信者数を獲得しているのは無神論かもしれません。
これは日本の『宗教=怪しい』『でも、お神輿をかついだりけっこう宗教やってる』という曖昧路線とはまた違ったものです。
私なんかは、理屈っぽく無神論を説くという欧米人の姿勢そのものが、神学を重視してきたキリスト教の伝統らしいなと思ってしまうのですが、ともあれ、欧米では神の信仰と無神論が拮抗している。
イスラム圏だと、無神論者は不道徳的だと思われているし、アメリカの田舎の方だと、子どもが無神論者なんて言うといじめられてしまう可能性がある。そのため、いじめられないためのガイド本も売られています」
信仰は自由。国ではなく、個人を見る
「結局のところ、何を生活の基本とするか、どういう宗教をもつかは、個人にゆだねられています。宗教というものはもともと、特定の地域の歴史の中でうまれたものですが、『この国の人だからこの宗教だ』ということは必ずしもないんです。
自分の家族の宗教など、建前はありつつも、自分の国の宗教という枠を超えて、他の宗教を持つ方もいる。
たとえば、ユダヤ人の中には案外、仏教などに関心をもつ方が多くいます。ベストセラーになった『サピエンス全史』のユヴァル・ハラリさんはイスラエルの方ですが、タイ仏教の瞑想に学んでいます。
だからユダヤ人ならユダヤ教だとは決まらないし、白人だからキリスト教だとか、親が宗教深いから子どももそうだと決めつけることは相手に失礼になることもあります。時には差別となって傷つけてしまうことにもなりかねません。
そうなると、国籍と宗教を結びつけるのではなく、決めつけないという目線が大切になってくる。それは、日本人だったら仏教徒だろうと思われて困るのと何も変わりません」
だから、気まずくなるからという理由や、なんとなく聞きにくいという理由から、その人の宗教を勝手に判断してしまうのではなく、食べものでも何でも、分かったふりをせずに、その人に直接聞くのが一番です。
宗教は、神仏を信仰する面と、人々の習慣や文化としての面のふたつあるんだなと考えた上で、それぞれの国に宗教が文化としては根付いているけれど、何を信じるかは別であり、個人が軸になるということも伝えていけるといいですよね」
――日本人として、自分は宗教に関心がなくとも、相手を尊重することはできますね。
「日本は、宗教に無関心だからこそ、宗教論争が起きずに社会的な紛争にならないというよさもある。欧米だと、相手の宗教を論理的に理解した上で喧嘩になったりもする。理解しているからといって、受け入れられるではないんですよね。
どの宗教も、その国の主観や偏見が入っているものだから、良いところ悪いところあるんです。宗教の枠にとらわれ過ぎると、それが引き金となって、国全体の問題になることもある。
そういう意味では、客観的に見られる日本人が、宗教に無頓着なのもそんなに悪いものではないと思います。でも同時に、宗教に疎いことが相手に対して押し付けになってしまわないように、最低限の教養を身につけることも大切です。
今、世界中で、科学や人工知能などの発展で、宗教のあり方がガラッと変わりつつあります。すると今後はますます、外国人とのコミュニケーションにおいても『この国の人だから〇〇教だ』ということにならなくなってくる。子どもたちには、枠にとらわれず、目の前にいる相手をしっかり見つめてほしいと思います」
子どもたちの未来に、今とはまた違った宗教の形があるかもしれない。そんなとき、学んだ知識だけでなく、実際に接する人々とのコミュニケーションから得ることもあるだろう。
私たちの国と同じように、他の国にも宗教として根付いている文化や習慣、価値観がある。そんな宗教を持つ人々との出会いやふれあいが、子どもたちの未来をよりよくするのかもしれない。
家庭ではこう教えたい宗教の文化
宗教は私たち日本人にも身近にある文化や習慣。相手の宗教を決めつけず、聞くことが大切
<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部