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【ブレイディみかこ】イギリスのリアルから学ぶ多様性
子どもをとりまく環境が急激に変化している現代。小学校におけるプログラミング教育と外国語教育の必修化、アクティブ・ラーニングの導入など、時代が求める人材像は大きく変わろうとしている。この連載では、多様化していく未来に向けて、これまで学校教育では深く取り扱われなかったジャンルに焦点を当て多方面から深掘りしていく。今回は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の著者、ブレイディみかこさんに話を聞いた。
“違い”について親子で話し合ったことはあるだろうか。
「なんであの人は肌の色が違うの」「なんであの人は違う言葉をしゃべっているの」子どもの質問に、どんな風に答えているだろう。
人種も宗教も、年齢も多様な人々が共存する社会になると言われている今、自分と“違う”人々とふれあう機会が多くなる未来のために、今、子どもに何ができるのか。
イギリスで暮らす著者と中学生の息子の日常を描いたノンフィクション『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が大きな話題を呼んでいる。
差別や格差、アイデンティティなどさまざまな問題に子どもたちが直面し、悩み、成長していく過程が描かれた本作は、遠いイギリスの話としてだけではなく、子どもを持つたくさんの親が多様性の中で生きていくことについて考えさせられる内容だ。
本の中では多様性を巡るたくさんのキーワードや会話で溢れている。ブレイディみかこさんと息子さんの会話の一部を見てみよう。
多様性にはタテとヨコがある
1996年からイギリス南端の街、ブライトンに住むブレイディみかこさん(以下、ブレイディさん)は、イギリスで保育士資格を取得し、失業者や低所得者、生活保護受給者を支援する施設の”底辺託児所”での保育を経験する。
アイルランド系イギリス人の旦那さんとの間に生まれた男の子は、市のランキングで常にトップの名門カトリック小学校に通っていたが、”殺伐とした英国社会を反映するリアルな”元底辺中学校に通うことを選んだ。
そんな息子さんのスクール・ライフは、社会の分断を写したような事件や、差別や格差で複雑化したトリッキーな友人関係に満ちていた……。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、ブレイディさんの息子さんと友人たちのさまざまな多様性が錯綜する中学校生活の最初の1年半が描かれている。
「日本で多様性というと、人種とかLGBTの話だけになりがちですけど、多様性っていうのは要するに格差という“タテ”の多様性があるということも、忘れてはいけない」とブレイディさんは語る。
イギリスのリアル
――タテの多様性を感じたのは、どのようなシーンですか?
「算数教室や読み書き教室といった、成人向けの教育センターでボランティアをしていた頃に、二桁の足し算ができない大人の多さを知っておどろきました。あとは-1℃と-4℃だとどちらが寒いのかわからないっていう人もいて、日本の常識でいえば信じられなかったですね。
オックスフォードやケンブリッジ大学に行くような優秀な人たちもいれば、二桁の足し算がままならない大人たちも大勢いるという、学力や経済の格差。こうした教育格差も、ある意味では多様性なんですよね。もちろんそれは放置してはいけない多様性ですが。
人種の多様性というのは、たくさんの人種がいる国だからおどろくことはありませんが、こっちの軸での多様性もすごい国なんだなと思いました」
イギリスでは2010年から緊縮財政がはじまり、当時210万人だった貧困層の子どもが2016年には410万人に増加。この数字はイギリスの子どもの1/3を占めると、ブレイディさんは書いている。
さらに、子どもをランキング上位の学校に通わせたい親たちは学校の近くに引っ越すため、人気のある地区の住宅価格は高騰し、富者と貧者の棲み分けが進むことで住んでいる地域により経済格差が生じているという。
「今、日本を含めあちこちで『みんなで多様性を認めよう』と声が上がっていると思います。違いを受け入れることはもちろん大切だけど、深刻なタテの多様性、つまり経済格差という分断があることは、認めるだけではなく放置してはいけない事実ですよね」
一方でヨコの多様性といえば、移民が挙げられる。
2000年に入りEU域が東欧諸国へ拡大し、イギリスへの欧州移民が増加した。その後毎年50万人近くの移民がイギリスに移ったことで、移民の急増が将来への不安と転じた。
2016年6月の国民投票では、僅差でイギリスはEUから離脱することを決定。2020年2月1日に正式に離脱をした今なお、離脱派と残留派で意見のやり取りがくり返されるなど、人々が多様であることが国全体の問題にも発展している。
イギリス国家統計局の2015年のデータによると、イギリス人口の8人に1人が国外で生まれ、12人に1人がイギリス以外の国籍を持っている。当然、さまざまな宗教を信じる人たちが生活圏を同じくしている。
――国籍や宗教の横軸の多様性を感じるのはどのような場面ですか?
「たくさんありますね。以前働いていた保育園では、宗教の違いで食べられないものがある子がすごく多かったので、ランチタイムが大変でした。
これはイスラム教の子用に豚肉が入ってないとか、これはヒンドゥー教の子用にベジタリアンのものとか、家族の宗教や信条で食事の内容が変わる。
日本の給食はまだまだ、みんなが同じものを食べることがほとんどではないでしょうか」
――子どもたちと接する仕事の中で、ほかに印象に残った出来事はありますか?
「保育園でおどろいたことがありました。白人の子どもがいて、その子の家族や家族の友人も全員白人で、東洋人を見たことがなかったんだと思います。
その子が1歳児クラスに入ってきて、いわゆる慣らし保育を担当させられたのですが、私が話しかけて近づいたとき、人間じゃないものを見たかのように教室の端っこまで逃げてめちゃくちゃ泣かれました。
最初にその反応をされたときはすごく衝撃で、でもどうしようもないので、白人の同僚に担当が交代になりました。
でも結局、毎日その子が来るうちに、私という東洋人の存在に慣れていって、近づいても大丈夫になっていったんです。卒園するときには一番仲良くなって泣きながらハグをする関係になりました」
初めは拒絶反応を示したとしても、そこで逃げたり排除するのではなく、衝突し時間をかけてでも“そこにいること”を認めることが、多様性を尊重することなのかもしれない。
日本とイギリスの大きな違い
イギリスの保育指針「ダイバーシティとインクルージョン」
――日本の子どもたちが人種の多様性に慣れるためにできることは、どのようなことだと考えますか?
「自分と“違う”人々とふれあう経験を通してしか、本当に多様性の中を生きていくことを学ぶことはできないと思います。
特に子どもは頭で理解しようとしたり、先生や親に何かをしなさいと言われるよりも、実際に話し合ったり、自分で経験しないと育たないですよね。
誰のことだって100パーセントは理解できないし、そうしていくと衝突したりいろいろあるかもしれないけど、違うところがあるように、同じところもあるということが分かるじゃないですか。
そうやってひとりひとりの意識が育っていくことで多様性は育っていく。頭と意識だけが先に育つわけはない」
――身をもって体験しないとわからないということですね。それだと大人よりも、子どものほうが臨機応変に対応できそうな気がします。息子さんの場合は、見た目の違いで戸惑う場面はありましたか。
「うちの息子は、私が日本人で連れ合いが白人という、家庭のなかに多様性があったので、自分がどう見えようと、周りにいろいろいな人がいようと、彼はあるものはあるものとして受け入れられるという感じでした。
それって小さい時からの慣れなんですよね。だから、両親ともに白人だろうと、黒人の友だちがいたり、日本人の友人が頻繁に家に遊びにくるとか、そういうことで自分と”違う”人との接触があればいいのかなと思います。
そういう意味でも、早いうちから子どもを多様性に慣れさせるために、外国人保育士を増やすというイギリスの前首相のトニー・ブレアが行った幼児教育改革政策というのは、まさに大改革だったと思うんですよ」
――日本も外国人保育士が増えるとよいですよね。イギリスの保育が指針としているのはどのようなことですか?
「イギリスには、保育を統括しているEYFS(Early Years Foundation Stage)というバイブルがあります。それはカリキュラムと幼児教育の法的フレームワークが一体になったもので、その中の大きな核となっているのが多様性と社会的包摂、ダイバーシティとインクルージョンです。
社期的包括とは、貧困など社会的に弱い立場にある人々を、排除や孤独から守り、社会の一員として支えるということ。
保育施設は多様性を推進しなければならないため、外国人の保育士や子どもが多い保育園は、多様性を進めているという点で評価されます。
外国人の子どもで言葉が全然分からなかったり、障がいのある場合でも自治体が受け入れを支援する仕組みになっています。言葉の分からない子が入って来たときは、保育園から通訳の人の派遣を要請し、自治体はそれに応えなければなりません。
保育園で障がいの訓練を受けた有資格者がいない場合は、対応できる人の派遣を自治体に要請し、自治体はそれに応えなければ法律違反になります」
イギリスでは、性質の異なる人々や社会的に弱い立場にある人々を含め、国民ひとりひとりを排除や孤立から保護し、社会の一員として取り込もうという考え方を推進している。国家主体でさまざまなバックボーンを持つ人々を認めよう、というイギリスの姿勢は見習いたいものだ。
社会全体で子どもを育てる
イギリスでは、学校運営や路上生活者支援、災害時のボランティアといった”地べたの相互扶助”が盛んに行なわれている。
個人の善意のみに頼るのではなく、教育にしっかりと根付いているその精神は、イギリス人が子育てについて語るときによく使われる言葉「It takes a village」にも現れている。
子どもは村全体で育てるもの、という意味だ。親や学校だけでなく、ボランティアなどの活動を通し、さまざま人々に囲まれた中で、子どもは育っていく。
――日本も昔はみんなで子育てをしていた時代がありましたが、最近では核家族化が進み、育児や家事の負担を母親が抱え込むというケースが増えています。
「イギリスも地域によって違いがあります。例えばロンドンのような大都市だとワンオペの人も多いかもしれません。親や親戚と離れ、近所のコミュニティとのつながりも薄いケースが多いので東京などの都市と似ているんじゃないのかな。
ただ、『村全体で子どもを育てる』を大きく広げて、『社会全体で子どもを育てる』だとすれば、イギリスの方がはるかにその風潮はあります。
育児放棄の疑いがあると、イギリスの場合はすぐにソーシャルサービスが出てきて、子どもを取り上げることに躊躇しません。フォスターファミリー(里親)に預けられて育てられている子どもはたくさんいます。
それから、この間、日本の公園の遊具には、1950年代から60年代に作られているものが残っていて、老朽化が進み大けがにつながるため、政府が地方自治体に点検としかるべき措置を講じるように命じた、というニュースを見ました。
『しかるべき措置』なら、撤去して新しいものを作ると普通は思うじゃないですか。でも地方自治体に新しい遊具を作る金銭的余裕がないから、使用禁止にしてそのまま放置されていたという。終戦直後の遊具が残っているなんてびっくりしました。
イギリスも緊縮財政ですけど、公園の遊具はちゃんとアップデートされています。これも『社会全体が子どもを育てる』の一部といえますね」
子どもの持つ力
人種や民族、ジェンダーといったヨコ軸と、経済格差といったタテ軸が複雑にクロスし、さらにEU離脱派と残留派に分かれ、ありとあらゆるレイヤーの分断と対立が深刻化するイギリス社会においても、子どもたちはタフでたくましい、とブレイディさんは言う。
子どもの権利の考え方
――日本とイギリスでは子どもの権利に対する考え方も異なりますよね。
「日本の場合、権利を主張する前に義務を果たせという、義務で権利を買うような考え方ですよね。まず大人の言うことを聞けば、権利がもらえるといったような。それは別物だし、私は権利が先だと思います。
権利はみんなにあって当たり前だという意識が低いため、何でも自己責任になってしまう。日本は子どもの権利だけでなく、全体的に人間の権利に対しての考えが乏しいと感じます。
イギリスの場合は、公立の小学校に『Right to play(遊ぶ権利)』というポスターが貼ってあります。日本から引っ越して来られた保護者が、英国の公立校にそのポスターが貼ってあったのを見ておどろいたようですが、イギリスでは当たり前の感覚です。
・声をあげる権利
・声を聞いてもらう権利
・守られる権利
・遊ぶ権利
・学ぶ権利
など、国連憲章にある子どもの権利を、学校が小学生の頃からきちんと教えています。
自分に権利があることをわからないと、他人に権利があることも分からないですよね。人間は生産性がなくても生きているだけで権利がある、ということが日本ではなかなか分かりづらくなっているように感じます」
子どもだから決められないだろう、子どもに挫折や後悔をしてほしくない、そんな思いで私たちは、子どものことを何でも決めてしまう。子どものためを思ってした決断や、敷いたレールが、多様性への理解を閉ざしてしまうこともあるのかもしれない。
――イギリスでは、子どもの進路に関しても子どもの意見を尊重しますか。
「やはり子どもの権利に関わってきますが、『子どもの意見を尊重する』と考える親が多いように思います。子どもが決断に達するようアドバイスや働きかけはするかもしれませんが、親が独断的に決めることは少ないんじゃないかな。子どものほうでも、自分たちにも権利があることを学校で教わっているから、親の一方的な押し付けには疑問を感じると思います。
『子どもが自分で決めることで失敗するかもしれないけれどいいじゃん、迷いながら子ども自身で道を見つけていくよ』という子どもを信頼し任せるという雰囲気が、日本は元々あまりない国ですが、いっそう広がっているように思います。イギリスでもエリート層の場合は、親が引いたレールの上を歩かせるというケースもあるように思います。
でも実際には、子ども自身が迷えるスペースを残してあげて、自分で道を見つけさせてあげた方が本当の意味で賢くなるし、強くなると私は思うんですよ」
日本では、子どもの意見は聞くが決定権は親にある、というケースが多いかもしれない。未来がどうなるかわからないから守りたい、でもレールを引くのではなく決定権を子どもにも持たせるというブレイディさん一家のスタイルは、今後のヒントになるかもしれない。
そばにいる人から手を差し伸べよう
本作で印象的なシーンのひとつに、息子さんが友人に制服を渡すシーンがある。貧困層出身である友人は、年季が入って変色し、裾がギザギザになった制服を着ていた。
古くなった制服を着ている友人に補修した新しい制服をあげたいけれど、逆にその善意は友人を傷つけるのではないか。
「どうして僕にくれるの?」と問うた友人に、息子さんは「君は僕の友だちだからだよ」と答える。
――息子さんが友人に制服を渡すシーンは感動的でした。
「子どもだからこそシンプルに言えたのかもしれません。そういう感覚を大人は忘れがちで、私自身あのときに『なぜこの子だけに制服をあげようとしているのだろう。他にもたくさん困っている子どもがいるのに自分の子どもの友だちにだけあげるのはいけないことなのではないか』と思っていました。
そこで息子がスッと『君は僕の友だちだからだよ』と言ったときに、本当に大切な基本に立ち返った気がしました。
自分が助けられない人もたくさんいるからこの人は助けない、ということではなく、自分が助けられる近くにいる友だちから助けていかないとしょうがないじゃないですか。助けを必要としている人が現実に目の前にいるときに、マクロな視点で状況を俯瞰してどうするんだという。
以前対談したある方が言っていたのだけれど、溺れている人がたくさんいるから誰も助けないのではなく、ボートの側にいる人から助けていかないと、という言葉も身に沁みました」
螺旋状に乗り越えていく子どもたち
――息子さんがアイデンティティや帰属意識の問題で悩んでいるとき、親としてどのように息子さんを見ていますか?
「子どもの乗り越え方って螺旋状だと思うんです。
問題にぶつかっても他のことに熱中するうちに一回忘れて、また同じような問題にぶつかって考えて、直線ではなく螺旋状に成長していく。
きっとこれからも、大人になっても、息子は何度も同じアイデンティティの問題にぶつかる気がします。だけど少しずつ成長していくんじゃないですかね。乗り越えていくというか折り合っていくというか。
大人のようにずっと引きずらず、新しいものが見えたら乗り換える、子どもの天真爛漫さには学ばなければいけないことがあります。子どもの方がタフなのかもしれない」
これまでの価値観にとらわれず多様性の中に飛び込もう
これからの多様性の受け入れ方
――ブレイディさん自身は、子どもが問題に直面したときにどのように接していますか?
「私は自分の意見は言いますけど、子どもに『こうしたら』というアドバイスはしません。多様性の中に放り込んで、子どもが学んできたことをいっしょに考えます。
いつだって、子どもが見ているのは親の姿だと思います。親が友人と接する姿や、働く姿を見ている。
アドバイスをするよりも、自分が見られていることを意識しておいたほうがいいと思います。教科書通りの多様性の受け入れ方や本の内容を唱えたところで、子どもは口だけかどうかをちゃんと見ています。
まず親自身が変わらないといけませんが、頭や口先だけで変えられることではありません。みんなで多様性の中につっこんで、地雷を踏みながら、ぐちゃぐちゃになりながら体験して少しずつ変わっていくんだと思います」
――私たち親にとっても、子どもにとっても、“違い”を認めることはできても、密にコミュニケーションをとるような関わり合いは避けてしまうことがよくあります。
「多様性のあるところには分断があり、波風を立てようとしなくても立ちますからね。
異なる宗教や習慣を持って生きてきた人たちが共存すれば、知らなかったことがあり、私はそのやり方をしないとか、うちの子どもにはそういうやり方をさせてほしくないとか、分断がつきものです。波風を恐れていては多様性は推進できません」
――地雷を踏んででも経験していこうという感覚が、私たちには薄いのかもしれません。
「波風を忌避せずに起こすことで日本は変わっていくと思います。日本はもうちょっと、そうしなければならない場面では波風を立てて前に進んだほうがいい」
私たちは人類の過去の経験から、血を見るような差別の歴史を知っている。しかし、本や映画、インターネットの情報だけでは本当に理解したことにはならない、とブレイディさんは語る。
多様性の中に身を投じ、思考し、時には間違いを犯すことでしか本当に理解することはできないのだろう。
そのためには羞恥心を捨て、親自身が自分の無知さに気づくことが重要だ。思い込みでジャッジするのではなく、知らないことは知らないと認め、知ろうとする親の姿勢を子どもは見ている。
親として持つべき姿勢
――人種の多様性、宗教の違い、階級の差といったさまざまな問題に、今後私たちはどのような姿勢で臨めばよいと考えますか?
「何とかなるって思わせること。
これから外国人が増えて雑多な世の中になることでいろいろな問題が起きても、人間は何とか乗り越えていける、という姿勢を親が見せないといけないと思います。
ものすごく綿密に計画してもその通りにいかないことは多々あるし、親の経験値だけで決めつけないこと。大人がそういう姿勢を見せていかないと、多様性を受け入れられない臆病な子どもが育ってしまいます。
自分の知っていることだけを集めた世界で生きることは安全だし、世界のことを受け入れたり、反対に世界に出ていくことは勇気の要ることです。でも、『“違い”を持つ人の立場に立ってその人のことを想像してみる能力』であるエンパシーの概念が大事だし、エンパシーが能力である以上、それは向上させることが可能です。
だから何とかなると思いますよ、人間は。私はそのことを信じているし、みんな何とかなってきて今があるわけだから。悲観的になり過ぎるのが一番よくないと思う」
共感や同情といった「感情」にとどまる意味を持つシンパシー(symphathy)に対し、エンパシー(empathy)はより主体的な「自分とは異なる他者の立場になって理解する能力」のことを指す。
世界はこれまで以上にグローバル化が進み、人種や民族の多様性が増すだろう。ジェンダーの問題で悩む人々がもっと自由に声を挙げられる日も遠くないかもしれない。一方で、格差の分断は深刻化するという未来の可能性もある。
さまざまなレイヤーの人々が共に生きていく多様性の時代は、「エンパシー」が重要な時代といえる。
複雑な世の中であっても「何とかなる」という親の姿勢を見た子どもたちは、エンパシーの時代を築いていけるだろう。
家庭ではこう教えたい「多様性」
地雷や波風を恐れず、子どもといっしょに多様性に飛び込もう
【ブレイディみかこさんTV出演情報】
「世界一受けたい授業」日本テレビ 3月7日(土)19時56分~20時54分
「SWITCHインタビュー 達人達(たち)NHK 3月21日(土)22時~23時
<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部