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【中野智宏/前編】小5から「人工世界」を創る東大生のルーツ
ファンタジーの世界に魅了され、小学5年生から「人工世界」を創作している東大生の中野智宏さん。大学では言語学 を専攻し、テレビ朝日『タモリ倶楽部』にも出演。幼いころの「好き」という気持ちをどのように開花させ、探究をし続けたのか話を聞いた。
人工世界――その世界の地理や歴史、そこで暮らす人々が話す人工言語など、細かな設定が緻密につくりこまれた架空の世界。
そんな人工世界「フィラクスナーレ」を生み出し、創作活動を続けているのは、現在東京大学大学院に在学している中野智宏さん。
この「フィラクスナーレ」の表現方法は実に幅広い。
大学で専攻している言語学を生かして人工言語「アルティジハーク語」をつくり、東大や他大の仲間たちと映画を制作。幼少期から続けていたバイオリンやオーケストラの経験を生かして映画の音楽を作曲し、同じく幼少期から親しんだ美術の腕で地図を描く。その物語を、小説としても作品にするなど、さまざまな手法を用いている。
そんな人並外れた創作活動が注目を集め、昨年2020年にはテレビ朝日『タモリ倶楽部』にも「架空世界の創造者」として出演した。
これほどまでに創作に向かい、突き進む彼の幼児期はどのようなものだったのだろうか。家族とのエピソードもあわせて、今の彼ができた背景を紐といていく。
父の「おもしろかったよ」の言葉で創作への意欲が加速
――創作を始めたのはいつ頃ですか?
小学生のころ、『ハリー・ポッター』をきっかけにファンタジーの世界に魅了され、自分も書いてみたいと思い、小学5年生からはじめました。
これは小学校高学年のころに書いていた初期の構想ノートです。
ノートの右上に人工言語が書かれていますね。今となっては設定を忘れていて読み方がわからないものもあります(笑)。
『ハリー・ポッター』に影響を受けた、特殊な能力を持つ少年が旅に出るような王道のファンタジーの話ですが、小学生の頭なので限界はあって、このころはまだ神話なども引用されて描かれています。
全く現実世界と切り離された人工世界を作りはじめたのは、中学生になってからです。J・R・R・トールキンの『指輪物語』を読んで、言語、歴史、登場人物の血筋まで、膨大かつ緻密に設定された世界を知り、そこから「フィラクスナーレ」の創作がはじまりました。
ちょうど小学生の終わりごろに、アングロ=サクソン・ルーン文字を全部覚えたので、それを使ってメモを書いたりもしていました。
ルーン文字とは、古代から中世にかけてゲルマン人が用いていた文字。使用された国や年代によって、ゲルマン系、スカンジナビア系、アングロ=サクソン系など、字形にバリエーションがあるものです。
――こうしたノートは当時ご両親に見せたことはありますか?
自発的に見せたことはありません。そのころは人に見せるつもりで書いていませんでした。
ただ、父が僕のランドセルからこのノートを見つけて読んだようで「おもしろかったよ」と言ってくれたんです。その言葉にすごく元気をもらって、自信がついたことを覚えています。
後になって思うと、父の一言は創作を続けていこうと決意する上で、大きな言葉でした。
今書いている小説も、このとき書いていた物語を現在に至るまで何度も練り直して、発展させて作っているんです。
両親は「やりたいことは最後まで」と教えてくれた
――このようなノートで創作を始めたのは小学校5年生とのことでしたが、それ以前、幼児期のころはどんなことをしていましたか。
バイオリンをやっていた父の影響で、僕も自分からやりたいと言い出して3歳から始めました。楽器を演奏することが好きで、小学生に上がってからはかなり厳しくレッスンをしてくれました。
大変だったのですが、それでも今まで続けてこれたのは本質的に好きだったからなのかなと思います。
それと、小学校では、先生に「外に出て遊びなさい」と言われても、教室でずっと絵を描いているような子どもでした。両親からも、小さいころからかなりインドア派だったと聞かされています。
――音楽も絵を描くことも、自分からやりたくて続けてきたのですね。
両親から「何かをやりなさい」と押し付けられることはなかったです。
あったとすれば、僕が「やりたい」と自分で言ったことをちゃんと最後までやりなさいということはずっと言われ続けてきました。
バイオリンのレッスンがつらかったときも、部活で悩んだときも「自分でやりたいと言ってはじめたのだから」と。僕の「やりたい」という気持ちは尊重してくれますが、投げ出すことについては割と厳しかったかもしれません。
僕が本当にやりたいということが理解してもらえたときには、それにいっしょに付き合ってくれて、将来への投資だと思ってサポートしてくれたように思います。
「変」だと思われても突き進んだ中高時代
――その後中学受験をして、中高一貫校に進学しています。受験勉強との両立はどうしていたのですか?
小学生当時、創作をそこまで自分の人生の中心に据えていたかというとそうでもなく、どちらかというと勉強の方が優先順位は高かったように思います。
中学受験に関しては両親から「今後のことを考えて、進学校を目指してみようか」という働きかけがあり、その後、学校は自分で選ぼうと、オーケストラ部のある学校を探して志望しました。
――中高一貫の男子校に進み、創作は心置きなくできるようになりましたか?
僕が入ったのはいわゆる「進学校」と言われる学校で、“勉強第一”と考える人が多かったように思います。
そんな中で僕は「変なことをやっている人」と思われることが多かった。
部活は弦楽オーケストラ部と美術部に所属していて、同学年で作品を書いている人もいましたが、創作のジャンルが違ったので通じ合えていたわけではなく、ファンタジーをやっている僕を表面的に「中二病」と言ってくる人もいたりして、壁はありました。
――そういった空気の中でも創作をやり続けられた原動力はなんだったのでしょうか?
ファンタジーの世界があまりにも自分の生活の一部と化していたところが大きいように思います。
この頃すでに、自分で作った言語でノートをとるようになったりもしていたのですが、そういったことにも表れているように、SFなり、架空創作物なりが、人生と切っても切り離せない状況になっていました。作ることをやめるということは、自分の生き方を捨てるような感覚だったんです。
自分が自分であり続けるために、創作し続けることをやめられませんでした。
中学時代は言語についても勉強を進めていて、学校の旅行行事で京都と奈良に行ったとき、薬師寺の薬師如来像の前に立札がかけてあって、そこにサンスクリット語が書いてあったのを見て「めちゃくちゃかっこいい言語だな」と思い、サンスクリット語を学び始めました。
図書館で本を探していたら、司書の先生に「こんなの読む人いるんだ」って驚かれたのがすごく記憶に残っています。
独学で作曲を始めたのも中学3年生の時です。
「フィナーレ」という音楽ソフトを使ってPC上で打ち込みで曲を作るようになり、高校生くらいになり、やっと形になったという感じです。大学でも作曲や演奏活動は続けています。
幼少期から家族と友だちがサポートしてくれた
――中野さんのように何かに興味を持って探究する中で、周りから揶揄されたとき、どのように声をはねのけたらいいでしょうか?
正直僕自身、うまくはねのけられたわけではなく「なんとか生き延びられた」というのが実情なんですね。
ではなぜ、なんとか生き延びられたのかというと、自分のやっていることを「いいね」と言ってくれる人がゼロではなかったからだと思います。
僕の場合は家族が常にサポーティブで、新しい作品を何回も何回も、両親や妹に読んでもらっていて、自分の作品ではありながら、「家族と協力してできた作品」という思いもあるのが救いでした。
それから、学校でも何人かの友だちが読んでくれて「おもしろい」と言ってくれたこともうれしかったです。
同時に、自分が存在する意義を考えるようになってきて、「自分がこの世界でできることは、1から別の世界を作り上げていくことだ。それをやらないと死ねない」という使命感を感じるようになってきたのも、大きな原動力になっているのだと思います。
――後編では東京大学へ進学後の活動について、そして今後の創作とキャリアの両立について聞いていきます。
<取材・撮影・執筆>KIDSNA編集部