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【病とともに家族と生きる】園田マイコ ~乳がんの私を支えた子どもの存在
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KIDSNA編集部の連載企画『病とともに家族と生きる』。#02は園田マイコ氏にインタビュー。高校卒業後から始めたモデル業で活躍を続けていた39歳のころ、乳がんが発覚する。シングルマザーとして病気と闘いながら、彼女は子どもとどのように向き合ってきたのだろうか。
がん大国と言われる日本では、親族にがん経験者がいる場合が少なくない。その場合は特に、自分の身体が普段と違うように感じると「もしかして・・・」と不安になる人もいるだろう。
今回取材した園田マイコ氏も、母親が乳がん経験者であったこともあり、心のどこかに「もしかしたら」という漠然とした不安と「私は大丈夫」という思いを持ち続けていたという。そんな中、乳がんが発覚する。39歳の時だった。
園田マイコ氏は高校卒業後からモデルの仕事を始め、世界的有名ブランドのファッションショーに出演。その後も光文社「STORY」や集英社「eclat」、扶桑社「婦人画報」など多くの女性誌を飾ってきた。24歳で結婚し25歳で長男を出産。その後シングルマザーとなり育児と仕事を両立してきた。
乳がん宣告を受けた時、これからどうなるのか、子どものこと、生活のこと、仕事のこと、不安な思いが次々と沸き上がってきたという。
彼女はどのようにそれらの不安を乗り越え、闘病に加え子育てと仕事の両立を続けてきたのだろうか。闘病中に感じた想いや病気を経験した先に見えたものを踏まえ、話を聞いた。
子どものために、生きる
シングルマザーとして仕事と育児の両立を続けてきた中、乳がんが発覚する。園田マイコ氏はどのような想いで宣告を受け止めたのだろうか。
「いずれ、もしかしたら」が現実になった瞬間
ーー園田さんはお母さまも乳がん経験者だったことで、常に自分の身体の状態など気にされていたそうですが、どのようなきっかけでご自身の乳がんが発覚したのでしょうか?
「入浴中のセルフチェックでしこりらしき塊を見つけ、すぐさま病院で細胞診、マンモグラフィーなど一通りの検査を受け、発覚しました。
母のことがあったので、30歳を超えたあたりから自分の胸に対する意識は少しずつ変わっていて、『いずれ、もしかしたら』という気持ちが常にありました。
39歳の時、いつも通り入浴中にセルフチェックをしていたら、指の腹に固い、しこりのようなものを感じて。
お風呂から出てすぐに『乳房のしこり』でWeb検索をしました。『乳腺症あるいは乳がんの可能性あり』という検索結果を見て、ぞっとしました。
すぐに病院へ行き、一通りの検査を終えた時点では『95%大丈夫』と言われていたので安心して帰宅しましたが、一週間後、検査結果を聞きに行った時に『悪性です』と乳がん宣告を受けました」
頭の中は真っ白、目の前は真っ暗に
ーー乳がん宣告はお一人で受けられたのですか?
「一人でした。それまで何に関しても自分一人で決めてきたので。誰かに頼る考えはありませんでした。
でも、宣告を受けてからは頭の中が真っ白に、目の前は真っ暗になってしまって。大きなハンマーで頭を殴られたような感覚。医師は何か説明をしてくれているのに、まったく内容が聞こえてこないんです。
私、死ぬんだ。息子のこと、母のこと、どうしよう。それしか考えられない。医師が話した『全摘』という単語だけが耳に届くと、全摘したら仕事はどうなるんだろう、と。
意識がどんどん遠のくような感じで、病院の支払いを済ませ外に出た瞬間、号泣しました」
感情は、抑えず出し続ける
ーーご自身の中で簡単には受け入れきれない想いもあったと思います。どのような過程を経て受け入れ、治療へと気持ちを前向きに整理されたのでしょうか?
「最も強く感じたのは『息子を一人にしたくない』という想いでした。それが治療に向かわせてくれた、一番の根源だったと思います。
宣告を受けてすぐに乳がん経験者に会い、いろいろな話を聞けたことも大きかったですね。その方は全摘手術をしてから7年経っていたのですが、既に仕事をバリバリこなしていて、活き活きとした姿にとても勇気づけられました。
乳がん治療の知識や具体的な治療方法など、相談にのってもらううちに荒ぶっていた気持ちも鎮火していって。
その後受けたセカンドオピニオンの結果を聞くころには、とても冷静になっていました。必要な手術や治療方法もすべて受け入れようと心も決まりました。
それでも最初に宣告を受けてから2週間は、息子のこと、母のこと、仕事のこと、いろいろなことを考え続け、夜一人になると自然と涙が出てくる生活を送っていました。その感情を我慢せずにそのまま出し続けたことも、『病気を受け入れよう、しっかり治療しよう』という気持ちへつなげてくれたのだと思います。
その後、サードオピニオンを受け、3つ目の病院で温存手術となりました。全摘を覚悟していたので温存で本当に良いのか迷いましたが、そこでも乳がん経験者の方々の話に助けられました。体験談からもらうアドバイスは本当に大きかったです」
受け入れがたい事実を知った時の衝撃は、一瞬にして人から思考力を奪う。しかし人には、自分だけでなく誰かのために生きたいと願う心がある。これから体験するであろう辛い現実を想像し一度は心が折れてしまっても、自身の想いと向き合い、周囲の声に耳を傾けることが、心を立て直すきっかけの一つとなるのだろう。
生きる力が湧き上がった、息子の言葉
園田マイコ氏が乳がん宣告を受けた時、息子さんは中学2年生だった。多感な時期の子どもに、彼女はどのように自身の病気を伝えたのだろうか。
ーー初めて宣告を受けた時、最初に元ご主人に伝えられたそうですね。
「病院を出てすぐに元夫と事務所に電話で報告しました。元夫とは離婚後も良い関係を築いていたので、しこりが見つかった時や検査に行く時も伝えていました。
元夫の声を聞いた途端に涙が出てきて、次の言葉が出てきませんでした。それでも私の言葉を電話口でずっと待っていてくれて、その状況ですぐに私がどういった診断をされたのかを理解してくれました。
息子にも私が話すより先に伝えてくれて、気を遣ってくれたのだと感じています。
帰宅後、息子にいざ話そうとした時、息子の方から『パパから聞いた。ママをサポートするから大丈夫だよ』と切り出してくれました。この言葉を聞いた時、『この子のために生きる』と心に決めました。治療を続ける間もずっと、一番の支えになりましたね」
ーー子どもへ伝える時、言葉選びや伝え方など難しいように感じます。
「難しいテーマですよね。ただ私の場合、息子がもう中学2年生だったこともあり、抗がん剤治療が始まれば必ずわかりますし、手術となればなおさら誤魔化すことはできません。なので、これはもう正直に話すしかないと思いました。
息子は、私に対しては『大丈夫』と平気な顔を見せてくれましたが、実際に元夫から話を聞いた瞬間は、かなり心配してくれていたようです」
自分事だからといって、一人で抱え込む必要はない。子どもは年齢の違いはあれど、親を想いできる限りの力で支えになろうとしてくれるものだ。親である私たちに生きる力を与えてくれるのは、子どものそういった想いや姿なのだろう。
母の弱音は子どもの頼もしさを引き出す
園田マイコ氏は温存手術後、抗がん剤、ホルモン治療を続けた。副作用が現れれば母親としてこなしきれない家事、育児も出てくるだろう。子どもが中学2年の思春期真っただ中にありながら、闘病と子育てをどのように乗り越えたのだろうか。
ーー闘病中、親子で気持ちのすれ違いなどが起きないよう、気にかけていたことはありますか?
「コミュニケーションを普段以上に取るように意識していました。
息子は思春期に入ると喋らなくなるタイプで、話しかけても『うん』しか言わない。質問をすれば答えとして返ってはきますが、何を考えているのか、どういう気持ちなのかわからないということはよくありました。
そんな息子に代わり、逆に私が、自分の弱音をすべて出していました(笑)。言葉にも態度にも『もう無理』『できない』という感情を表す。そうすると息子は『仕方ねぇな、やってやるよ』と言いながら協力してくれることが多かったです。
言い方はふてぶてしくても、『母親のために俺が』という気持ちは持ってくれていたのだと思います」
ーー逆に、これだけはしないように気を付けた、ということはありますか?
「息子の前では泣かない。それだけですね。
でも、私が一人で泣いていたことは知っていたらしく、ずっと気づかないふりをしてくれていたようです。私より心ができてるなと感じますね(笑)」
身体や心が辛い時、平気な顔をして過ごしていれば、周囲の人には無理をしているように映る。園田マイコ氏は母親として「心配をかけたくない」という想いを貫きつつも弱音を隠さないことで、子どもの「力になりたい」という想いを高められていたのもしれない。
張り詰めた心を解く、親子の習慣
弱音を吐きながら闘病する母と、平気な顔をして過ごす息子。お互いに心配をかけないよう思いやりながら過ごした闘病期間中、母と子二人の関係はどのように変化していったのだろうか。
変わらぬ姿が見せる、息子の思いやり
ーー園田さんが闘病中、息子さんに変化はありましたか?
「息子はまったく変わりませんでした。普段通りマイペースを保ちながら生活していました。その姿があったから、治療が落ち着いている間は私も普段通りの生活を送れていたのだと思います。
本人としては無意識だったと思いますが、家の中でふとした瞬間に息子の鼻歌が聞こえてくることもよくあって。
家の空気が重くならいように『僕は大丈夫だよ、心配しないで』というメッセージをくれているように感じていました」
普段の生活を、普段以上に親子で過ごす
ーー息子さんに助けてもらったことなど、印象に残っていることはありますか?
「お風呂掃除やゴミ出しは進んでやってくれましたし、自分で夕飯を作ることもありました。インスタント食品ではなく、自分で野菜を切って作っていたのには感心しましたね」
ーー闘病中、食べられない時や作る作業が辛い時に、子どもが自分で作ってくれるのは助かりますね。
「抗がん剤の副作用で味覚障害が出た時は、料理をしても何を作っているのかわからなくなるくらい、味を感じられなくて。その症状が出ている間は食事作りをストップしていました。
便秘も副作用として出ていたので食べる食材には気を遣っていましたが、私が料理を作れる時は、食べ盛りの男の子が好きなハンバーグなども作りました。
『美味しいね』と言い合いながら食事ができたことも、闘病中の心の支えになっていました」
ーー息子さんと一緒に出掛けることもあったと聞き、思春期の男の子にしては珍しい印象を受けました。
「抗がん剤治療の副作用で私の髪が抜けた時、一緒に帽子選びに付き合ってくれました。ただついてくるのではなく、私の代わりに次々帽子を試着してくれたり、似合うかどうかを一緒に考えてくれて。嬉しかったですね」
本質的なものに目を向ける思考へ
ーー病気を経験したことで、息子さんに対する想いに変化はありましたか?
「息子の存在の大きさを改めて感じました。それとともに、息子への接し方も変わりましたね。口うるさく言うことが少なくなりました。
病気になる前は、いろいろなことに意識を張り詰めてピリピリしていたように思います。私はどんなことも自分で決めてきた分、子どもや周囲に対して『何でできないの』という気持ちを持っていましたが、『できなくてもいい』と思えるようになりました。
今では、みんながそれぞれのペースで生きていけばいいんだ、と思っています。小さなこだわりが消え、本質的なものに目を向ける思考にシフトしている最中ですね」
家事を手伝ってもらうことで助けられるのはもちろんだが、園田マイコ氏にとって支えになっていたのは、子どもとともに過ごす「変わらぬ日常」だったようだ。普段通りに過ごしながら、普段以上に想いを伝え合う。この習慣が、張り詰めた意識を緩めていったのかもしれない。
オープンマインドがもたらした仕事の機会
手術による傷跡や副作用による脱毛などは、モデルとしての活動に支障をきたす場合もあるだろう。シングルマザーとして、仕事を失うことへの不安は尋常ではなかったはずだ。園田マイコ氏はどのように乗り越え仕事を維持したのだろうか。
ーー乳がん宣告を受け最初は全摘手術も予定していたそうですが、その時感じていた仕事への想いを聞かせてください。
「全摘と言われた時は、不安ばかりが募っていました。これからどのように洋服を着こなせばよいのか、そもそも仕事は続けられるのか、モデル以外の仕事経験がない分、経済的にどうなるのか。
ですが、乳房再建という方法があることを知ったことで気持ちが楽になったし、脱毛が進みスキンヘッドになった時も、しばらくお休みすればいい、と気持ちを切り替えていました。
ちょうどそのタイミングで『ウィッグでもいいから出てほしい』とお話しをいただき、その後も定期的にモデルの仕事をいただくことができました」
ーー闘病しながら仕事を続ける中で、意識していたことはありますか?
「周囲の人々に普段通りに接してほしい想いがあったので、気を遣われたり特別扱いを受けないためにも、自分が乳がんであることをオープンにしていました。それに対し、周囲が『気にしてないよ』という姿勢で接してくれたおかげで、私も普段通り仕事に臨むことができました。
仕事と闘病生活に行き詰まった時、支えになったのもやはり、同じ乳がん体験者の方々でした。ステージや病気のタイプは違っても、同じ患者同士なので、気持ちをわかってもらえる。
同じ立場の方々と相談し合い、お互いに解決策を探ったり、時には思い切り気持ちを吐き出すことで、すべてに立ち向かうモチベーションを保っていました」
募る不安に身をゆだねるのではなく、「今はこれでいい」と切り替え自分の状況を明かすことで、新しい仕事の機会にもつながった。正直で誠意ある対応により、周囲は心配よりも安心と信頼を彼女に寄せることができたのだろう。
言葉で伝え、素直に生きる
現在もがん発覚前と変わらず、モデルとして活躍を続ける園田マイコ氏。大切な人、大切な仕事を守り続けた彼女が、病気を経て今感じていることとは。
ーー大病を経験すると価値観が変わる方もいるようですが、園田さんが感じている変化はありますか?
「病気になる前は『あれ欲しい、これ欲しい』と欲も多かったのですが、今は最低限の良いものに囲まれてシンプルに生きたい、と思うようになりました。今も断捨離中で、シンプルに心地よく住まうことが、今後の目標です。
普段通りの生活が特別であることも、改めて感じました。闘病中でも笑う機会を得るために、行ける時は落語や寄席へ積極的に出かけていました。電車で出かけ友人と待ち合わせして一緒に舞台を観る。
当たり前のように過ごしていた時間を大切に思うようになり、おいしいものを食べたり旅行に行くなど、経験することに重きを置くようになりました」
ーー息子さんや周囲の方々に対する想いで、変化はありましたか?
「人に甘えることは、乳がんになって学びました。
闘病中は家事ができないこともあり、そんな時は『今日はやらない』と決めて割り切っていました。家事をサボっても許してくれる息子の優しさに甘え、楽をしていたと思いますが、闘病中は負担をゼロにする方を優先していました。
友人や元夫にも『これができないから代わりにやってほしい』とお願いすると、みんな快く助けてくれました。『なんでわかってくれないの!』ではなく、素直に頼めば相手もわかってくれるので、自分の気持ちは素直に言葉で伝えていかないと。
今も周囲に助けてもらえるところは助けてもらいながら、生きています」
編集後記
一人のモデルとして、母として、全てを自分で決めて突き進んできた園田マイコ氏が「人に甘える自分を許す」価値観を手に入れるまでには、どれほどの葛藤があったのだろうか。
子どもや周囲の人々に支えられながら過ごした闘病生活は、自分の気持ちを素直に表現し、今という時間を大切に過ごす生き方へと彼女を変えた。
やわらかな雰囲気をまとい、優しく笑う。「母として、女性として毎日を丁寧に生きる」彼女もまた、魅力的に感じた。
KIDSNA編集部
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