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【スポーツ王の育て方】荻原健司 ~キング・オブ・スキー 2連続オリンピックメダリスト
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KIDSNA編集部の連載企画『スポーツ王の育て方』。#01は荻原健司氏にインタビュー。「キング・オブ・スキー」と呼ばれ、1992年・1994年のオリンピックで2連覇を果たすなどウィンタースポーツのパイオニアである彼がどのような教育を受け、どのようにして作られたのかを解明していく。
「有名人になるには、メダリストになればいい」
「体操はすべてのスポーツに通ずる」
こう語るのは、スキー・ノルディック複合団体においてオリンピック2大会連続で金メダルを獲得し、現在は渡部暁斗選手などの育成に力を注ぐ荻原健司氏(以下、敬称略)。
アルペンスキーの選手だった父の影響を受け、幼い頃から双子の弟・次晴氏と共にスキーに慣れ親しんで育つ。
1992年のアルベールビルオリンピックと1994年のリレハンメルオリンピックにおいて、ノルディック複合団体競技の選手として金メダルを獲得。ワールドカップでは通算19勝をあげるなど、その無類の強さから「キング・オブ・スキー」と呼ばれた。
2004年から2010年にかけて参議院議員も務め、現在は世界を舞台に戦う選手たちの指導を行っている。
かつて世界を圧倒した彼のベースには何があるのか。どのような教育を受け、何を感じ、何を想い考えながら「キング・オブ・スキー」と呼ばれるようになったのか解明していく。
有名人になるためにメダリストを目指す
スキーとの出会いから厳しいトレーニング、そして、プレッシャーとの戦い方について聞いた。
きっかけはスキー選手の父
ーー生涯のスポーツとなったスキーを始めたきっかけとは?
「育った環境と両親からの影響が大きいと思います。父がアルペンスキーの選手であり、育った地域が降雪地域だったため、休日は家族でいつもスキーに行っていました。父は一緒に遊びながらも、“子どもたちがスキー選手になってくれたらいいな”という想いを、少なからず持っていたと思いますよ」
ーー野球やサッカーなどメジャーなスポーツなどに目移りはしなかったのですか?
「しなかったですね。たしかに、当時はプロ野球真っ盛りで、リトルリーグに入っている友人も多かった。ジャイアンツが話題に上がることも多かったですが、両親がプロ野球を全く見なかったからか、関心が向くことはありませんでした」
山奥から飛び出してビッグになる
ーースキーを本格的に始めてから厳しい練習などもあったと思いますが、モチベーションを維持するものとは何ですか?
「スキーが好きなのは大前提なのですが、父に言われた『有名になりたいのならスキーでメダリストになればいい』の言葉が私を突き動かしていました。
スキー少年団に入った頃に描き始めた夢の1つに「有名人になってみたい」という想いが漠然とありました。この田舎町から飛び出してビッグになりたい!という想いを膨らませていましたね」
ーーちなみに、有名人とはどんな人ですか?
「当時、ジャニーズなどのアイドルが一世を風靡していた時代であり、華々しい雰囲気に憧れがありました。『俺にはできっこないよな』と思いつつ、テレビの向こう側にある世界に行ってみたいと感じていましたね」
ーーその夢が叶ったと感じた瞬間は?
「1992年のアルベールビルオリンピックで日本に帰ってきた成田空港です。
小学5年のあの冬の晩に、父が『オリンピックで金メダルを取ればすぐに有名人になれる』と話していたシーンが鮮明に思い出されました。父の言葉を常に意識してきたわけではないのですが、絶対にメダルを取るぞという気持ちを駆り立てた言葉が、言霊として残っていたのかもしれません。空港でハッとしたのを覚えています」
ワールドカップでもメダルを獲得し続けた彼は、その無類の強さから「キング・オブ・スキー」と呼ばれるようになる。しかしそこには己との葛藤も存在したようだ。
周囲の声は己の想いで遮断する
ーー大会に挑むたび金メダル獲得に向けた国中の期待が高まっていたわけですが、プレッシャーとはどのように向き合われていたのでしょうか?
「私が競技人生の中で最大のプレッシャーを感じて戦ったのは、長野オリンピックです。自国開催なわけですから、どうしたって“金メダルお願いしますよ”という期待が高まる。
そのときは『割り切り』で大会に臨みました。いただく応援や期待は確かに嬉しい。ただその時だけは、いったん横に置いておく。オリンピックのプレッシャーの中で応援や期待の声を真剣に受け止めていたら、潰れてしまいます。
冷淡な印象を持たれるかもしれませんが、自分のやるべきことを見据え、周囲の声を遮断する勇気が、パフォーマンスに繋がってくる。
“今だけは一人にして”という割り切りはスポーツ選手には必要だと思います」
自分を知ることで困難も乗り切れる
ーープレッシャーや悔しさを感じているとき、もう辞めたい、逃げたいと感じたことはなかったのですか?
「常に緊張感のある生活の中にいたときは、もう辞めたいと思うことはありました。ただ、どんな状況にあっても辞めずにいられたのは、やはりスキーが好きだったからですね。
自分のベースができれば、困難があっても頑張れる。自分が向かっていることを『好きだ』と言えることが、前向きな気持ちを持てる基盤だと思います」
幼い頃に何かに親しんだからといって、誰もがそれを好きになるわけではない。続けることで出会う困難により、くじけてしまう人も多いだろう。なぜ、彼は幾多の困難や怪我を乗り越え、計り知れないプレッシャーに耐え忍び、時に心的苦痛を伴ってでも継続できるほど、スキーを「好き」になれたのだろうか。
荻原健司ができるまでのルーツ
オリンピックで金メダルを取るような選手は幼い頃からその競技に励んでいると思いがちだ。だが、荻原健司氏が本格的にスキーを始めたのは小学5年からだったという。
基礎は体操教室で養った運動能力
ーースキー少年団に入ったのは小学5年とのことですが、それ以前は習い事などされていましたか?
「小学1年から5年までは、両親の勧めで体操教室に通い器械体操に取り組んでいました。父は将来スキー選手にするうえで必要な運動神経を作り上げるための準備と考えていたのかもしれません。
なぜなら、体操をやっていたことが、間違いなく自分のスキー競技に活きていたと確信があるから。
今、自分の子どもも体操教室に通わせています」
ーー体操がスキー競技にどのような点で活かされるのでしょう?
「例えば、スキー競技の回転技には、空中感覚やバランス感覚が必要となります。それらの能力を養う基本となるだけでなく、体操が持つ要素はすべてのスポーツに通用すると考えています。
スポーツをするうえでの基礎が構築されると考えると、わかりやすいですね」
平日は姉弟で体操教室に通い、休日は家族でスキーを楽しむ。このスタイルを双子の弟である次晴氏と共に重ね、大学まで同じ進路を選び、同じスキー競技に挑んできた荻原氏。
彼にとって次晴氏はどういった存在なのだろうか。
自分を掻き立てたライバル
ーー中学時代、次晴さんが先に全国大会へ進んだとき「勝つためには人よりも練習するしかない」と実感されたそうですが、負けた結果をポジティブに捉えることができた要因はどこにあると思いますか?
「スキーが好きで楽しかったからですね。
辛い局面でも前向きなモチベーションが湧いてきたのは、やはり『スキーが好きで純粋に面白い』という想いがあったからだと思います。実際に、次晴に負けた悔しさが、自分を掻き立てるきっかけとなり、その後の猛練習につながりました」
ーー次晴さんは同志である一方、ライバルとしても意識されていましたか?
「意識はしていませんでしたが、実際そうだったのでしょうね。
次晴が先に全国大会へ行ったときは、猛烈に悔しかった。次晴以外の人に負けたときは大して悔しさは出てこないのですが、自分自身の中に兄という刷り込みがあるからなのかもしれません。双子なのに次晴の方が勝っていると感じていたのか、とにかく次晴に負けることは非常に悔しい。
そういう意味ではやはり唯一無二のライバルだったように思います」
身近にいる兄弟だからこそ、ライバルとして抱く思いもあれば、共に励まし合い切磋琢磨できる。同じ目標に向かう同志だからこそ、どんな状況にも動じない絆のもと、立ち向かうことができたのかもしれない。
どんなときも諦めない親の存在
荻原健司氏は人生のあらゆる岐路で、父親からの言葉を思い出すという。メダリストへと駆り立てた言葉もさることながら、参議院議員に挑戦する際にも「男ならやってみろ」という言葉を受けて臨んだそうだ。
彼にとって父親とはどのような存在なのだろうか。
父はメンターかつ一番の理解者
ーーお父さまの言葉が意思決定のきっかけになったことも多いようですが、荻原さんにとってどのような存在なのでしょうか?
「父はメンターであり、一番の理解者。私たちがスキーを続けることを徹底的に支援してくれました。
一番の理解者からの指摘やアドバイスは、当然ながら聞くに値する。自分よりも経験があり、親として理解したうえで言っていることだから。自分の考えと違っていたとしても父の意見を尊重していました。結果、どのアドバイスも正解だったと思っています」
原点は親にあり
「私の原点の出発点は、両親のサポートにあります。
自分の子どもをスポーツ選手に、と考えていらっしゃる保護者の方へ伝えたいのは、まずは親が諦めず、干渉しすぎないこと。
子どもと同じ夢や目標を持ち続け、子どもがそれを失いかけているときにこそ、親が諦めないことです」
ーー子どもをスポーツ教室などに通わせたとき、親が心がけるべき点はありますか?
「指導者を信頼して預けること、意見したいことが出てきても言いたい気持ちをグッと抑える我慢強さですね。
親のサポートが一番大事であり、親の理解なしにスポーツ選手は育たない。だからこそ、親自身がスポーツ選手を育てることができるかどうかを学ぶ必要があると思います」
父の教えのもと磨き上げた実力によって、「キング・オブ・スキー」は誕生した。共に信頼し合う親子だからこそ、この絆を持ち得たのかもしれない。
メダリストの子育て
父親に影響を受けた荻原健司氏が父親となった今、子育てにどのように向き合っているのだろうか。
子どものロールモデルは自分自身
ーーお子さんにもスキー選手になってほしいと考えていますか?
「長男は将来スキー選手になってくれたらと考えています。父が私にしてくれたように体操を習わせ同じように育てていったら金メダリストになれるのか。その実証実験ということでは断じてないですが、私が実際にやってきたように子どもにもやらせていきたいと思っています」
ーーお子さんがスキー選手以外の夢を語ったら、どのように対応しますか?
「長男は先日『自衛隊になりたい』と話していました。私が父に言われた言葉と同じように『金メダリストになれば、自衛隊にもなれるぞ』と伝えてみたところ、ハッとした反応を見せてくれました。その様子は当時の私自身と同じでしたね。
今では『将来はスキージャンプでメダルを取って自衛隊に入るんだ』と言っています」
我が子もメダリストに
ーーご自身が子育てで心がけていることを教えてください。
「親としての心得を守りつつ、子どもが上達を喜びながら活き活きとしている姿を見ていきたい。目を輝かせながら『見て見てお父さん!こんなことできるようになったよ!』ということが日常的にある子育てをしていきたいと思います。
うちの子がいつかオリンピックに出て、日の丸を掲げる選手になったら理想ですね」
自身が受けた教育を我が子にも受け継ぎたい。その背景には、金メダリストとして活躍した自身の人生への誇りと、そこまで育て上げてくれた両親への尊敬や教えの偉大さを感じているからこそだろう。
メダリストを育てる指導者
現役引退後は参議院議員を務めたのち、再び雪山へ戻り、現在は指導者として選手育成にあたる。2013年からは国体への出場も果たしている。
日本中を湧かせたメダリストは今をどのように過ごし、何を目標としているのだろうか。
ーー2017年の長野国体では長野オリンピックと同じ地に立たれ競技に出場されたわけですが、やはり感慨深いものはありましたか?
「嬉しかったですね。感動だった。
長野オリンピックで立った地に、20年後に再び選手として立てたことは、大きな幸福感を感じられました。国体には毎年出場していますが、充分すぎるほど充実した1日を過ごさせていただいています。成績は散々でしたが(笑)」
ーー現在は選手育成に力を注がれているそうですね。実際にオリンピック2大会連続銀メダリストの渡部暁斗選手の指導もされていますが、今後の目標について教えてください。
「自分のクラブに所属する6人のスキー選手を、オリンピック金メダリストに育てたいと思います。北京オリンピックに向けてしっかりとサポートしていきます」
荻原健司が思う「スポーツ王」とは
最後に、荻原健司氏が思う「スポーツ王」について聞いた。
「メジャーリーグのイチロー選手は長い間アスリートを続けられていて、そのストイックさと本場でのご活躍は本当に素晴らしいと感じています。
柔道では野村忠宏選手をはじめオリンピック連覇される方が多く、信じられない。本当にすごい。
4連覇されている女子レスリングの伊調馨選手も、心から尊敬しています」
実力を発揮し続ける選手へ敬意を抱いているのは、彼自身がアスリートとしてひとつのスポーツを続けていく強さと、オリンピックや大会出場におけるプレッシャーや重圧を自分自身が経験してきたからなのかもしれない。
編集後記
荻原健司氏は、生涯をかけるスポーツに幼い頃から出会い、ブレることなく「勝つ」という一点を見据え続けてきた。
その原動力となった「スキーが好き」という基盤は、父親が「いつか選手に」という願いとは別に、純粋に「子どもとスキーを楽しむ」という想いを持っていたからではないだろうか。
KIDSNA編集部
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