51歳で亡くなった夫の遺志継ぎ音楽家育成に献身…81歳声楽家が「死ぬまで文句を言い続ける」と決めているワケ
ドイツで叩き込まれた教え「無口でいるとバカと思われる」
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オペラの本場、イタリア・ドイツの両国で15年間の研鑽を積んだ後、「後進の育成に、精力を傾けたい」という夫の希望のもとに札幌に音楽院を設立。しかし、その5年後に、51歳で夫・勲さんは急死してしまう。遺志を継いだ三部安紀子さんは孤軍奮闘、札幌の芸術界の牽引役として活動を続けた。現在81歳、そのエネルギーの源とは――。
夫が音楽院設立に選んだ場所
1985年、三部安紀子さんは15年に及んだヨーロッパ生活にピリオドを打ち、家族揃って帰国した。胸にあったのは、これからの人生は、「後進の育成に、精魂を傾けたい」という思いだ。
そのために夫・勲さんが選んだ場所が、札幌だった。
「私は高校まで札幌にいて、昔の札幌って、暗くて、泥んこで、すごい田舎で、音楽なんか全然、何もない。そんなところで? って最初に思いました」
東京出身の勲さんの考えは明解だった。
「おまえ、だからこそ、北海道に帰るんだ。そこで、開拓していくんだよ」
ドイツの風土が好きだった勲さんにとって、北海道は全てが似ていた。ジャガイモにビール、そして冷涼な気候も。
「彼はビール党だし、若いときから、東京にいるより、札幌に来ているときのほうがホッとするって言っていました。高齢の母が1人で住んでいた家を5階建てのビルに建て替えて、5階にレッスン室とホールを備えた『みべ音楽院』を開校しました。音楽家を育てる拠点にしよう、日本と世界の架け橋になりたい、との思いでした」
夫・勲さんは51歳で逝去
声楽の分野でイタリアとドイツの両方で研鑽を積むケースが珍しかったこともあり、夫婦ともに舞台に立つ機会にも恵まれた。
ただし、北海道を拠点に選んだことで、娘の惣永なみえさんとは別れて暮らさざるを得なくなった。
「帰国子女」という言葉もなかった当時、娘の教育をどうするかは、ドイツ在住時から常に三部さんの頭から離れない問題だった。惣永さんが8歳のときに一時帰国した際、東京の住居近くに「ドイツ学園」という学校があることを知り、早速、一緒に見学した。惣永さんは「ママ、ここなら勉強ができる!」と、ここで学びたいという意思をはっきりと示した。
「教科書も全部ドイツのもので、娘がいつも使っているものだったし、先生もほとんどがドイツ人。机や椅子も全部、ドイツ製。娘が希望したので、日本での教育はここだと決めました。家族で帰国したとき、娘は13歳でした。ドイツ学園に通うために、娘は夫の母と同居して東京に住み、私たち夫婦は札幌に住居を移しました。13歳なのでいろいろ教え足りない思いはありましたが、大丈夫でした。大学は国際基督教大学に進みました。私も大学のキャンパスに実際に行ってみましたが、これでもう、何も心配がないなと思いました」
一人娘の大学進学の場に、勲さんの姿はすでになかった。勲さんは1991年、51歳の若さで亡くなった。肝硬変で、医者にかかったときには「よく今まで、(入院もせず)自宅にいましたね」と言われたほどだった。
「あっという間に、どんどん悪くなって。医者が嫌いな人だったから、病院なんて行ったことがなかったですね。私も身内が、ほとんど医者でしょ? 信用してないから、行かせることもなかったし。51歳、若かったですね。本当に、残念でした」