万博も、都庁もできるはずだった…JR・私鉄・地下鉄が一つもない「東京都心の一等地」が抱える"悲しい来歴"

万博も、都庁もできるはずだった…JR・私鉄・地下鉄が一つもない「東京都心の一等地」が抱える"悲しい来歴"

東京湾岸の晴海は、庁舎や万博の予定地だった。それが今、鉄道駅のない“タワマン街”になっているのはなぜか。東京の中心になるはずだった晴海の悲しい歴史に、ルポライターの昼間たかしさんが迫る――。

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東京都庁(写真=Okajun/GFDL/Wikimedia Commons)

晴海に移転する「幻の東京都庁」計画

現在、壁面を利用したプロジェクションマッピングが開催されたり、観光地化している東京都庁。展望室は外国人観光客にも人気で、平日には直通エレベーターが大行列。時には40分以上待つこともあるという。

そんな都庁が、新宿の現在地に移転したのは1991年のことである。1943年の都政施行以来(さらに辿れば1894年以来)、ずっと有楽町にあった都庁の移転は、高層ビル建設が進み副都心となった新宿の地位を一段と高めることとなった。

かつての東京では郊外だった新宿の副都心としての地位はここに完成したのである。これが行政機構の中心施設が持つ力といえるだろう。

しかし、実は東京市庁(のちの都庁)の移転問題は、これが初めてではなかった。時をさかのぼること約半世紀前、昭和初期の東京では、市庁舎を当時開発されたばかりの埋立地・月島四号地(現在の晴海)へ移転する計画が真剣に議論されていたのだ。

かつては東京万博の予定地となり、現在では湾岸エリアの一角として注目を集める晴海(詳細は前回記事:36年前に廃線になった「幻の鉄道・晴海線」は今どうなっているのか…晴海フラッグが「孤島タワマン」化したワケ)。そんな地域への移転という先見性のある計画が実現しなかったのはなぜか。

“庁舎問題は”100年以上前から存在した

東京市庁舎の使い勝手の悪さは、既に大正時代から問題となっていた。

東京市は、1889年に当時の東京15区を区域として成立したのが始まりだ。当初の東京市は一般の市制と異なり東京府知事および府書記官が市長を兼任し、市役所も市の職員もいない特殊な形で始まっている。この制度は1898年に変更され、新たに独立した東京市を設け、市長は市会が推薦した中から政府が任命するものとなった。

こうして独立した自治体となった東京市であるが、発足の経緯もあり市庁舎は府庁舎の内部に間借りするという形になった(※1)。

しかし、その後、東京市の人口増により市役所業務は徐々に拡大していく。結果、当初の間借りした部分は手狭になり、府庁舎の周囲はもちろん、離れた場所に次々と分庁舎を建てて対応することになった(※2)。

用があって訪ねて来てみれば、その部署は離れた場所にある別の建物というのは、明らかに非効率である。

こうした経緯もあり、大正前半には市庁舎の新築による統合は、かなり具体的にな話になっている。『東京朝日新聞』1917年7月23日付朝刊の記事「敷地探し 新築すべき東京市庁舎」では「市庁の新築敷地は芝公園と云う説もあるけれど地盤が悪いからだめである」として、大手町憲兵隊の土地(現在の丸の内消防署付近)が適地とする方向性が固まりつつあるものの十分な敷地の獲得が困難であることも指摘している(※3)。

ここは現在でも、日本経済新聞や三井物産の本社ビルに隣接する皇居の濠に面した一等地。当時も同様なので、市庁であっても交渉は困難だし、購入費用も相当かかるだろうと匂わせているのだ。

※1 https://www.tokyo-23city.or.jp/jigyo/kikaku/tenji/r_03/documents/02-09.pdf

※2 https://www.tokyo-23city.or.jp/jigyo/kikaku/tenji/r_03/documents/02-10.pdf

※3 「大手町憲兵隊のある場所も宜い所だと思うが、何分便利の宜い敷地を得るには困難である。」

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東京府庁(出所=東京府勢概要 昭和12年)
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東京市庁舎(出所=東京風景、明治44年4月 小川一真出版部)
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2025.05.27

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