【成田悠輔×教育】いま子どもに必要なのは 「自分の世界観を否定される」経験
これからの未来を担う子どもの教育はどのような選択をし、見極めて実践していくことがよいのか。多くの情報や選択肢がある中で保護者たちは模索し続けています。そこで今回は、米イェール大学助教授で経済学者の成田悠輔氏が考える未来を見据えた「教育」と子どもたちを取り巻く「社会」についてお話を伺いました。
よく「海外は教育投資が多くて日本は少ない」と言われていますが、そもそも、その際に比較される「海外」の国がアメリカやシンガポール、香港などで、すごく狭い範囲なんです。
これらの国の一部のものすごいお金を持つエリートたちには、その階級を維持することが重要という価値観があり、かつ、そのための良い教育を受けることのコストが馬鹿高くなってる国が念頭に置かれる場合が多いんです。
確かに、アメリカと比較すれば日本と比較にならないほど学力にお金を使っていますが、フランス、ドイツといったヨーロッパの国々では、超エリート学校も日本の公立大学より安かったりします。という意味では、日本はそんな異常値ではありません。
なので、アメリカをベンチマークにする必要は特にないんじゃないかな。アメリカの教育はいろんな意味で完全にバグっているので、あれに引っ張られてどんどんお金を使う必要はないのかな、と思います。
ーー国によっては、教育費自体が無料だったりする国もあると考えると、投資がどうとかそういう話ではないのかもしれませんね。
アメリカの場合は投資してるのか搾取されてるのか、きわどいラインにきています(笑)。
現状認識として、すごくお金がある家庭がどんどん子どもを海外に避難させるようになっているのは確かです。僕の周囲でも、一定以上の稼ぎがあれば、日本国内で子育てを完結する家庭はほとんどない印象です。
ただそれは、日本の教育が駄目ということが原因ではないと思うんですよ。
どちらからかと言うと、問題なのは「日本という国や社会に未来がない」ということです。
たとえ日本でどんなによい教育を受けて、どんな良い人材になっても、日本語しか喋れず、日本人とでなければスムーズに仕事ができない人だと、将来暗そうという予感がなんとなくあるから、みなさん海外に行かせるようにしているんじゃないかな。
だからこれは多分、日本の教育の問題というよりは、日本社会全体の問題と捉えた方が自然という気はします。
ーー教育は将来の仕事や職業にも関わることだと思うので、それをどこまで考えるかというところになるんでしょうね。
結構、世界中どこに行っても働けたり、稼げたり、戦えたりする人材になろうとするか、別にそれはどうでもいいと考えるかが、大きな違いであり、大きな別れ道なんです。
前者なら当然、できるだけ早く外に出した方がいいですよね。
ただ、別にそれはどうでもいいという考え方もあるにはあります。
なぜなら、現実的な話、日本は衰えていると言われていて、実際衰えてます。だけど、それでも世界で3番目に大きい経済を保っていて、今後インドに抜かれても、向こう数十年間トップ5ぐらいに居続けるわけじゃないですか。
今は年間50万人以上減ってる状態で、今後人口ががんがん減っていっても、5000万人をきることは多分ないんです。
そう考えると、規模感的には大陸ヨーロッパの大きな国、フランス、イタリアがもっとも悲惨で最も日本が縮小した場合の、行きつく先だと思うんですよね。
そう考えると、どこまでいってもそこそこ大きな、そこそこたくさん人がいる中進国ぐらいの位置付けを保ち続けると思います。
日本の中でそんなに稼ぐわけでもなければ、とてつもなくグローバルなビジネスを作り出すわけでもなく、細々とやっていくタイプの現実的な生き方は全然ありでしょうね。
やはり、ほとんどの日本人の意識は変わらないと思いますし、日本語でなければ仕事がしにくいのも、20年くらいで激変するとはあまり考えられません。
別に海外コンプレックスみたいなものを抱かなくても、日本の中で生きていけるならそれでいいという視点もあると思います。
ーー保護者としてはどうしても焦ってしまう気持ちがずっとあり、このままでいいのか悶々としていたんですが、成田さんのお話でとても納得しました。
日本人はなんだかんだすごく恵まれていますからね。こんなに大きな経済を、日本人で日本語を喋る人だけで牛耳っているわけじゃないですか。
そういう意味では、世界全体から見れば、たまたま日本に生まれ育ったというだけで、ある意味、既得権益を持っているし、それを生かす生き方もありかなという気はします。
そして、この生き方をする上では、下手に海外に行かない方がいいという考え方もあります。
中途半端に海外経験がある日本人ってプライドが高くて、面倒な人が多いじゃないですか。笑
海外経験のある僕でさえそう思うので、普通の日本人の感覚からすると、基本的に「関わりたくない」はずなんです。ゆえに、どうしても日本社会で生きにくくなる人が多いんですよね。
ですから、世界中どこでも生きていけるようにするためには、できるだけ早く日本を出た方がよい。ただ、日本を早めに出てしまうと、日本社会で生きていきにくくなり、どっちつかずになるというジレンマがあります。
実際、アメリカの大学を卒業しても、大体はビザの関係などで、仕事のために日本に戻ってこざるを得ず、一見グローバルな学歴を持ってる彼らが日本社会ですごく活躍してるかというと、そうじゃない場合がほとんどだと思います。
「日本には帰って来ない」という心づもりで徹底的に外に出るか、そこそこ沈みゆくがまだまだ大きい船のようなコミュニティの中でやっていくかですね。
分かりやすいところでは、これまで紙、FAX、電話など手作業でやりとりしてたようなものが、大体スマホやスマートデバイスなどでできるようになり、過去に何が起きたかも、これまでより簡単に振り返ることができます。
イメージとしては、昔は医者がカルテを手書きし、いざ閲覧したいときはカルテの束の中から、情報を見つけ出していましたが、今ではほぼ電子カルテです。
このようないわゆるデジタル化の先に、過去に何が起きたかという情報の蓄積があります。
患者自身、もしカルテを確認したければ、病院に行き、医者と話して引き出さなくてはいけませんでしたが、最近は患者さんが自分のカルテにアクセスする方法も出てきました。
同じように、お子さんや親御さん自身が子どもの情報にアクセスしやすくなり、同時に、学校や自治体などもそのデータを見やすくなります。
そうすることで、たとえば、先生やスクールカウンセラーがSOSにつながる相談情報をしっかり認識していなくても、自治体側で「おかしい」ということを察知して、アクションをとることができるなど、先生個人の俗人的判断に依存しすぎない、ムラのないサービスが提供されるようになるでしょうね。
実際、僕たちが今、当たり前のように日々使っているサービスや商品は、ここ30年ぐらいで大きく変わってますよね。
それと似たような変化が、教育の中でも起きるというイメージでもよいと思います。
ーー今、保育園や小学校でも教員不足が深刻で、先生ひとりひとりの負担が大きすぎたり、それによる学級崩壊なども問題になっています。デジタル化が進んで、そのあたりが改善されるといいですよね。
いきなり「データ活用」みたいな話をしちゃうと、イメージがわきにくいと思うんですが、先生が手作業でおこなっていたありとあらゆることが一つのアプリやソフトで完結し、その分先生と子どもたちが話せる時間が増えるという感覚で捉えていただければよいのではないでしょうか。
ーーそれが変わるまでには、さらに何十年とかかるのでしょうか。
ここ数年のGIGAスクール構想で相対的に変化して、多くの学校が校務支援システムを取り入れるようになり、学校内での勤怠管理や名簿管理を一つのシステムで行える仕組みは随分浸透してきています。
それからタブレットの1人1台支給。一部の自治体ではタブレットがそのまま教室に積み上げられているという問題もありますが、確実に広がっていますよね。
タブレットで教材を見たり、テストを受けたりすることが増えてくると、同じ科目をやっていてもお子さんによって進捗度、理解度が全然違うことも把握しやすい。
そもそも同じ速度で全員がやるのは無理があるから、それぞれの子に応じて、深度やスピードを調整することも可能になります。
そのための、いわゆるAIドリルといわれていることを開発する企業も、ビジネスとして大きくなってきて、そういう意味では少しずつではあるけれど前進していると言えるでしょうね。
今回のコロナがもたらした数少ない良いインパクトのひとつとしてGIGAスクール構想が進んだことだと思っています。
まず、感覚値として、何事も適度が重要です。
たとえばアメリカは、子どもたちの自信や自己肯定感みたいなものが世界最高レベルですが、実際、学力などその他のさまざまなパフォーマンスのデータを見てみると、先進国中、かなり低いということが問題になっています。
自己肯定感を高めるだけでは、「自信ばかりある中身はない人間になる」とも捉えられます。自己肯定感そのものは、「高すぎても困るし低すぎても困る」程度のものでしかないんじゃないでしょうか。
自己肯定感について語られるとき、「ほめることが重要か」という話が出てきますよね。
まず、一般的なことを言うと、無意味にほめたり肯定したりしてもあまり意味がありません。
特に、早い段階で結果に基づいたほめや、見た目や属性など生まれ持った才能で自己肯定してしまうと、あまりいいことがない気がするんですよね。
本来、アウトプットはさまざまなノイズが含まれるものなので、長い時間が経過して平均的なパフォーマンスを見なければなんとも言えないものです。だから、アウトプットでほめたり、肯定したりすると、たまたま運が良かった人がほめられる結果になるんです。
そういう意味では、本人の意思や、考えによって変えられるようなプロセスについてほめたり、プロセスで肯定感を高めていくことが重要な気がします。
ほめ方も適度なレベルが重要で、僕が元々専門にしてる経済学では、ほめたり、インセンティブを与えたりすることのメリットとデメリットについて議論されています。
ある側面を徹底的にほめたり、ある側面についてインセンティブ報酬を与えたりしてしまうと、そこばかりに目がいくようになり、それ以外の部分を頑張らなくなったり、自分にとって大事なものに目がいかなくなったりしてしまいます。
肯定するのも、ほめるのも、そこそこ適度に、やりすぎないことが大事で、かつ、本人が自分の意思で行動を変えられるような部分の努力をほめていくことが大事かな。
ーー「そこそこ適度に」というのはなかなか難しいですね。しかも未来に向けてやっていることに対してほめようと思ったら、ちゃんと子どものことを見てあげていないと、なかなか気づけないですよね。
どこかのeラーニングかオンライン学習系の企業が、ほめ方の効果を測った研究結果を発表しているのですが、過去に頑張ったことをほめてしまうと、意外にもその後頑張らないという結果があり、逆に「ここまで頑張ったね、だからもうちょっと頑張ってみようか」というようなメッセージに変えると、悪い影響は少ないと言われています。
過去はさらっとほめるツールとして使い、未来に向けた行動にちょっと誘導するぐらいでいいかもしれないですね。「ほめること」そのものをポリシーとして、それを中心に教育してしまうと間違いが起きやすい気がします。
ーーそこで終わりではなく、継続的なものにするということですね。
教育だけではなく、会社もそうですよね。昔は、怒鳴りつけて頑張らせていましたが、最近は怒鳴りつけるとあっという間に訴えられたりするから、とりあえず「みんな素晴らしい」ということにしておくムードがあります。
ーーたしかに昔は結果でしかほめてもらえませんでしたが、最近はプロセス重視ですよね。
ある世界有数の大企業では、人事のプロセスで、社員にどんなフィードバックを送るかをかなり機械化して、グローバルに実験しているらしいんです。
どんな言葉遣いでどれぐらいポジティブまたはネガティブなフィードバックを送ると、その人のその後のパフォーマンスにどんな影響があるかが分かる。
多分教育の世界もそういういった技術は進んでいくので、僕たちが思い悩まなくてもいい塩梅を、代替アプリが作り出してくれるんじゃないでしょうか。
ーーそうなると、先生も親も効果的にほめることができそうですね。
保護者は子供への答えのない問題に悩み続けなくてはいけないことが、一番のストレスになっているんですよね。
すでに投資などの世界では、あまり大きな間違いはないレベルまでアプリに委ねられるようになっていますが、教育もAIが勝手にやってくれるようになると思います。
まず一般的に、学力だけでなく非認知能力を高めることが幸福度やウェルビーイングにつながるという話はあっていいと思います。
それと同じぐらい大事だと思うのは、「自分の世界観を否定される」経験です。
自分の価値観を否定されることや、あるいは自分と全く異なる価値観や世界観で動いている人が、世の中にはたくさんいると知ること。
たとえば、山ってみんな気軽に登りますけど、一瞬で天気が変わるから、普通の登山客がいるようなコースでも、尾根とかを歩くと雷が直撃しやすいんですよ。登山していて、少し後ろを歩いていた人が亡くなることがあるんです。
山や海のように、身近にある自然で人って簡単に亡くなりますよね。これは一例に過ぎませんが、自分たちが当たり前と思っていることって、意外と簡単に壊されて、当たり前じゃなくなるんです。
その感覚を肌で感じるのは大事。それは自然に触れることや、日本以外の文化に触れること、あるいは別の世代に触れることなどでも可能だと思います。
外国に行けば、自分たちが日頃当然のように大事にしていたことを誰も気にしてないことが分かるし、若い頃に老人と話すと、体の痛みや日々普通に生活できるだけでありがたいことが分かります。
自分が普段置かれている環境とは異なる環境や、自分とはまったく違う他者との出会いのような経験が大事なんじゃないでしょうか。
ーーコロナ禍もあり、子どもが普段と違う場所や人と触れ合う機会って、かなり減っていますよね。
だからこそ、きっかけ作りがすごく大事で、親が作ってもいいし、子どもが自ら作ってもいいですね。やっぱり家の中だけや学校の周辺だけでは、自分の価値観ががらっと否定されるような経験ってそうそうないんですよね。
別の法則とか別のルール、別の価値観で動いている世界があることを分かっていることが、結果としてウェルビーイングや、気楽に生きていくことに繋がる気がします。人間はすごい蛸壺の中にいて、蛸壺の中のルールに従って悩みを深めてしまう生き物ですから。
たとえば、ブラック企業で働いている人って、傍から見れば、辞めればそれで済むんですが、内側にいる人たちは、なぜかそこにいることが前提になってしまっていて、自分たちのアイデンティティみたいなものが、その小さな世界にからめ取られてしまっていることがすごく多いですよね。
そこからどう自由になるかが、人間の永遠の課題だと思います。それはエリートだろうが、凡人だろうが、別の形で全く同じことを繰り広げているんです。
エリートたちは、「受験戦争を繰り広げて有名とされる学校に入り、人が羨むようなキャリアを歩む」という、つき詰めると誰も興味はないどうでもいい目標が自己目的化していき、そこから少しでも外れると、世界が終わるような恐怖感を勝手に自分たちで作り出しちゃうわけです。
でも、「そうじゃない世界がある」ということを、できるだけ早い段階で体感として知っておくことが、これからの教育に必要なことのひとつかなと。
ーー親自身が決められた世界の中で育ってきていると、なかなかその考えにはたどりつけないですよね。
そこは親自身も教育を受ける必要がありますね。僕自身も歳をとり、気が付くと、自分にとってここちのいい空間しかなくなっていくじゃないですか。それとどう戦うかなんです。
たとえば、この1週間で自分を全否定されるような経験や、突然誰かに怒られる経験をしたか?というと、電車で座ってる時に、知らないおじさんに怒られたくらいで、自分自身を自己破壊できていない。
親自身、大人自身も子どもと一緒にそういう体験をすることが大事だと思います。
勉強は極端にしていない時期としている時期があり、高校3年間はほぼ何もしていなかったです。「ちょっとやるか」と決めた時期だけ急激にやるみたいな。
たしか高校のときに、一応センター試験(※現:共通テスト)を高校の先生に言われて受けたら、3年間まったく勉強せず、準備もしていなかったので、ランダムに高い点数と低い点数をたたき出して、そのまま敗退した記憶があります。
もともと勉強が好きでも得意でもないので、勉強はツールとか手段としてだけ捉えていて、一番最適な道を進むようにしてきました。
たとえば、入試のための勉強なら、単純に入試問題そのものを見たり取り組んだりするところからスタートして、何ができれば大体OKなのか、まずは感触をつかんだ上で、必要なことだけをばーっとやっていた感じです。
ーー多くの人はその「必要なこと」が分からないので、それが分かることがすごいと思います。
世の中で「勉強」と言われてるものって、3つぐらいの、全然違う要素が混じっちゃってるんです。
1つ目は、手段としての勉強。単位を取る、卒業する、入試、みたいなことのための勉強です。
2つ目は、「勉強することそのものがいいこと」、あるいは人によっては「楽しいこと」という目的としての勉強。
そして3つ目は、多分勉強そのものはどうでもいいけれど、とりあえずみんなと同じようなことをする、人に何かやれと言われたことをやる、「社会に生きる奴隷としての覚悟を養うための勉強」があると思うんですよ。
この3つは全く異質な勉強なのに、とりあえず、座って何か集中する場合、なぜかぐちゃっと混ぜ合わせて一緒にしてしまっているんです。
そのせいで、目的を完全に達成するための手段としては、すごく非効率な場合が多いと思います。
僕自身の勉強のやり方は、目的のために何をしたらいいかだけを考えていたので、そこに学校は必要ないと判断したからあまり学校には行かず授業も受けなかったかんじですね。
ーー小さいときから勉強熱心な家庭環境だったのでしょうか?
全然ですね。とくに僕の幼少期は、今ほど受験戦争は過熱はしてなかった印象です。
中学受験をするエリートたちも、塾には5年生くらいから行けば十分でした。地頭がいい子や、適性があった人は結構そんなに頑張らなくてもするっと受かっちゃった時代です。
勉強漬けだった時期というのは、多分中学に入る直前と、大学に入る直前の半年くらいです。
手段としての勉強はそれくらいで十分で、むしろ何年もやらなければ無理なんだとすると、正直コスパが悪いし、受験自体そんなに向いてない気がします。
学歴を高めたり、テストで良い点をとったりするための勉強は、向いている人と向いていない人がいるんですが、今の社会だと、向いていない人までそれをそれをやらなければいけないことになっているのが大きな間違いだと思います。
向いてない人にとってはとにかくコスパが悪いので、単純にコスパの観点からそんなに頑張らないで離脱した方がいいと思います。
ーー早い子は3年生から4年間とかスパルタ塾に押し込まれますからね。
そのわりにあんまりうまくいってないですからね。
受験とかテストはそもそも向いていない人が頑張るのは無理があります。僕がスポーツで競争しろって言われても無理なのと同じだと思う。
スポーツのほうが適性は分かりやすいので、運動が苦手な人がそのスポーツを極めて、プロスポーツ選手になるために長い時間を浪費することはあまりないと思うんですよ。
だけど勉強の場合、それが普通になってしまっているのが問題かな。
むしろ、適性に応じて、勉強を武器に生きていく人とそうでない人をもっと峻別するような仕組みや考え方でもいいんじゃないかと僕は思います。
ーー高校生時代の成田さんは、目的がきちんと見えていたからこそ、そのために何をしたらいいか考えるという視点を持てたと思います。この考え方は幼い頃に培われたのでしょうか?
小さい頃からではないと思いますが、これはもう、たまたま生まれ持ったセンスに近いと思います。
スポーツも同じで、すごくセンスがある人は、なんとなく何をやればいいかが大体見えるのですが、それが見えないんだとすると、それはあんまり向いていないということなので、すごく好きなのでなければ、無理にやる必要はありません。
今は「勉強はみんな一応やるもの」「やらなくてはいけないもの」となってるから、問題を生み出しているんです。なぜそうなっているかというと、昔は、教育や学校が、みんなに同じものを提供するしかなかったからでしょうね。
みんなに同じものを提供するとなったら、教科書や問題みたいな量産できるメディアがよくて、かつ、世の中で生きていく上で、マイナスになることはなく、平均的には役に立ちそうな、知識と情報を与えるとよさそうっていう感じで、全員が得意不得意に関わらず勉強をするみたいな社会ができてしまったんだと思います。
ただ、これからは個人ごとに教育内容をカスタマイズすることがどんどん可能になるので、それぞれが、得意なことや好きなことを中心にやっていき、それ以外のものは抜けてもオッケーという風になっていく気がしています。
僕たちが勉強に苦しめられる最後の人類になるかもしれません。
▼成田さんのインタビュー動画はこちら
後編では、インターネット社会がもたらす働き方と社会の在り方についてお話を伺います。
<取材・撮影・執筆>KIDSNA STYLE編集部