狭い自宅で部下10人と毎晩酒盛り…威張り腐る国家公務員の父に50年こき使われた母に下された"非情宣告"
50代娘「小5から彼氏がいました、心のオアシスで誰かに支えてほしかった」
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【後編】「感謝の言葉で天国へ送ってあげて…」50代娘に土下座された老父が"余命数日"の母親に吐いた血も涙もない台詞 「3歩下がって歩け」「女のくせに〜」「女はこうあるべき」……現在50代の女性の父親は昔から男尊女卑の考えを持ち、母親や幼い自分に暴言や暴力を繰り返した。女性は当時、召使のようにこき使われていた母親に対して憐憫の思いと同時に、「バカな人だな」という気持ちも抱いていたという――。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。 |
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国家公務員でDVの父親
中部地方在住の二藤瑞子さん(仮名・50代・既婚)は、国家公務員の父親が43歳、看護助手の母親が37歳の時に生まれた。
「両親の馴れ初めは聞いたことがありません。国家公務員の父は、『俺が1言ったら10悟れ』『俺の3歩下がって歩け』『女のくせに〜するな』『女はこうあるべき』が口癖で、アルコール、麻雀、女、タバコが大好きで、看護助手をやっていた母は父に対等に見られておらず、まるでお手伝いさんのように扱われていました。仕事帰りに父は、8畳二間の家に10人近くの仲間を毎晩のように連れて帰ってきて、麻雀やらカラオケやらで深夜まで大騒ぎしていました」
母親は父親から命令されるがまま働いていた。それを見て育った二藤さんは、物心ついた頃から、タバコがいっぱいになった灰皿を片付けたり、お酒をふるまったりしていた。
「『タバコを買ってこい!』と言われて、自分のおやつ代を握りしめて買いに走ったのもこの頃。お酒が入った男の人が母にちょっかいをかけることを知ったのもこの頃です。父は平日だろうとお構いなしで、後輩を連れてきては偉そうに振る舞って、威張り腐っていました。父のバカ騒ぎしている声や母に命令する声を何度も何度も聞いているうちに、幼稚園児だった私は縄跳びを手にして『父なんて早く死ねばいい』と願い始めたのもこの頃でした」
幼い頃の二藤さんにとって、父親が帰宅する夕食の時間が最も嫌いだった。
父親は一人で帰宅した時は、「酒! 飯!」と叫び、家族を無視して飲み始める。そのまま夕食タイムに突入すると、酔っ払い始めている父親は、ついているテレビの内容や母親、二藤さんの些細な言動で暴力が発動する。母親が少しでも反論しようものなら、熱いお茶をぶっかけたり、せっかくの夕食をぶちまけられたりするのは日常茶飯事だった。耐えられず母親が泣き出すと、父親はさらにイライラがエスカレート。幼い二藤さんは母親を守ろうとするが、大の男に敵うはずもなく、かえって怒りを買い、頭や腕を叩かれあっけなく撃沈。父親の暴力によって母親も二藤さんも怪我をすることがあったが、母親は「体裁が悪い」と言って病院には一度も行かなかった。
「サザエさんのような楽しい会話が飛び交う食卓が現実に存在するなんて、小学校の高学年になるまで信じられませんでした。食卓が家族のコミュニケーションの場とは思えませんでしたし、家族の食事がおいしいと思ったことはありませんでした」
成長するとともに二藤さんは少しずつ学んでいった。
「口答えも会話もしなきゃいいんだと。一方的に愚痴を言わせておいて、その時間が済むのを待てばいいんだと気がつきました。小学校高学年頃には、言い返す母のことも『バカな人だな。黙っていれば、怒鳴り始めの怒りのレベルで終わるのに』と思うようになっていました。この時、虐待家庭から逃げる方法や場所を誰かが教えてくれていたらなあと今は思います」
二藤さんは、大晦日や運動会が大嫌いだった。なぜなら、父親が朝から晩まで酒を飲むからだ。
酔っ払ってくると母親を怒鳴り散らし、その勢いで飲み食いしたものを吐いてしまうこともあった。運動会では、友だちにだらしがない父親の姿を見られるのが嫌だった。
外で飲んで帰ってくることもあった父親は、時々警察の世話になったこともある。警察から電話がかかってきて母親が迎えに行くと、
「こんなアホな女は知らん! なんで来やがった!」
とキレた。
「夜中なのに母は、必ず私を連れて行きました。私がいた方が父は暴れないと思っていたのだと思いますが、実際は私がいてもいなくても一緒でした。私は牢屋に入れてもらえばいいのにと思いましたし、父はもちろんですが、母に対しても『あんなに馬鹿にされて、情けない』と思っていました」