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社会が作り出したジェンダー観に今こそ「No」を【太田啓子×清田隆之】vol.3
私たちがつい口にしてしまう「女らしさ」「男らしさ」とは何だろう。社会が決めたあるべきらしさ、性別による役割に今こそ「No」をつきつけようと声をあげる人が増えている。弁護士の太田啓子さんと文筆家の清田隆之さんにお伺いし、ジェンダー問題を紐解いていく対談第3弾。
前回は、弁護士の太田啓子さんと文筆家の清田隆之さんにジェンダーバイアスフリーな子育てをしていく上で問題となる、周囲からのバイアスとどう向き合うかについてお伺いした。
左:清田隆之(きよたたかゆき)/筆業。恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。 著書に『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)などがある。 https://twitter.com/momoyama_radio。右:太田啓子(おおたけいこ)/弁護士。2002年弁護士登録(神奈川県弁護士会 湘南合同法律事務所)
日本弁護士連合会両性の平等に関する委員会委員、神奈川県男女共同参画審議会委員等経験。一般民事事件、家事事件(離婚等)を多く扱う。著書『これからの男の子たちへ「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店)『憲法カフェへようこそ』(共著、かもがわ出版)など。二児の母。 https://www.bengo4.com/kanagawa/a_14205/l_128436/
今回はジェンダーバイアスを生み出す社会構造と、それによる生きづらさについてお伺いし、男性自身がバイアスに気づくためのヒントを考えていく。
▼▼▼ジェンダーバイアスインタビュー第1回・第2回はこちら▼▼▼
ケアする性とケアされる性という役割
ーー前回、男性同士のコミュニケーションのひとつに「いじり」があるという話がありました。私は男性の「いじり」が苦手なのですが、子育ての仕方にもそれが現れているなと感じます。
清田隆之さん(以下、清田さん):これは自戒を込めてなんですが……男性の子どもとの関わり方を見ていると、刺激を与えるようなことばっかりやりがちだなって感じるんですよ。
太田啓子先生(以下、太田先生):高い高いとか、くすぐりみたいなね。
清田さん:そうそう。驚かそうとしてちょっかいを出したり。ここは女の人と明らかに違いを感じる部分で、以前「ケアの育児(女性)と刺激の育児(男性)」というテーマでエッセイを書いたことがありました。
子どもだけでなくたとえば友達同士の関係なんかでも、いじったりからかったり、お互い刺激を与えあうようなコミュニケーションがベースになっている。
落ち込んでる友だちにも、「どうしたの?大丈夫?」じゃなく「ウェーイ!元気だせよ!!」って刺激を与えたり……そう思うと、男同士って基本、ケアし合うことが少ないのかなって。
太田さん:なるほど。
相手が自分に求めていることをしてあげるのがケアで、自分が「やりたい」と思ってすることは「ケア」ではないんですよね。
私の知人の男性で、自分には子どもはいないのにものすごく子どもに好かれて懐かれる人がいますが、その人の子どもへの接し方が、「こうしてほしいの?」「これ飽きちゃったの?」と、とにかく子どものペースに合わせて、子どもの話を聞いてあげているんです。
その男性が子どもと遊んでいる前に、その子の父親がずっとスマホいじったりつまらなそうにしていたのを見たこともあって、大人が自分の気が向いたら「よし、遊ぶぞ!」と突然言い出しても、子どもはその頃には遊ぶ気はなくなっていたりしますよね。
そして、ケアの主体としての意識が、男性にはないことが多くて、女性にはなぜかある。
それは、母親もおばあちゃんも、社会的にそう刷り込まれているからです。ケアしなければ「気が利かない」「女らしくない」と言われたことのある女性はごまんと存在していますから。
感情を言語化することの必要性
清田さん:いじることや茶化すことがコミュニケーションのベースになっていることで、「ノー」を拾ってもらえないという問題が起きているように感じます。
つまり、「やめてよ」「怖いよ」「痛いよ」が言えないし、言ったところでギャグにされてしまい、まともに受け取ってもらえない。
男同士の関係の中でケアし合うような関係を求めると、気持ち悪がられてしまう傾向もあって難しいなと……。
太田先生:女同士はケアしたらケアが返ってくると思っているし、ケアし合ってると思うんですよ。男同士もケアすればいいのに、それをするのに抵抗があるとすれば、明確に自覚がなくても「そういうことするのは女みたい」「ホモっぽい」みたいに思って忌避しているということかもしれないですね。
清田さん:確かに、いわゆる“同性愛嫌悪(ホモフォビア)”が根深く関係しているような気がしますね(もちろんそうではない人も多々いるとは思いますが……)。
男友だちと話していると、コミュニケーションが全部「消臭スプレー」みたいな感じなんですよね。酒とか笑いといった刺激を上からシュッシュッとかけて、痛みをなかったことにして、根本の原因を取り除かない。
だけど実際は、「怖い」「嫌だ」って思いがずっと奥底で疼いているような気がしていて。
ーーパートナーがもともと話すのが苦手な場合はどうしたらよいでしょうか。
太田先生:「話し合いにならない」というのは離婚事件でとてもよく聞く話です。
話し合いができる人には想像できないかもしれませんが、本当にかみ合わないんですよね。
あとは、コミュニケーションの意図的な遮断というタイプのモラハラもあって、「お前は自分の言い分を言うだけだ」「もうこの話は終わり!」ってシャットアウトしてしまう人もいます。
会話にならないどころか意図的な無視もありますし、そういう人はなるべくコミュニケーションをしたくないので、セルフケア的なグループにいくのも難しい。
清田さん:なるほど……。男性の多くはノリを共有することをコミュニケーションだと思っていて、実は「話し合う」ということの意味が感覚的に分からないんじゃないかという疑惑もありますよね。大勢でテンポよく会話をまわし、笑いが発生すればよいコミュニケーションで、それができれば「俺たち仲良し!」みたいになるけど、実は「一対一の関係」になることをすごく恐れていたりする。
普段お互いの話をしてるわけじゃなく、集団の一部として、あるいは役割やキャラとしてそこにいるだけだから、個人として向き合う経験がなくて、いざ一対一になると気まずくなったり照れくさくなったりしてしまうというか。
趣味を媒介して話すことはあっても、「お前のことを教えてくれ」「俺のことを知ってくれ」という主旨のコミュニケーションをすることが実はかなり少ないんだと思う。
太田先生:以前、フランスの記者から、「お酒の席に女の人がついてお酌をしてくれてただ相槌をうつ、いわゆるキャバクラみたいなものの存在意義が自分は本当にわからない、ああいうのは日本特有の何かを表しているのではないか」と聞いたことがあります。
これは男性同士のコミュニケーション不全を補う、合いの手要員なんだと思います。女性をコミュニケーションの道具というか、埋め草に使うんだよね。
清田さん:キャバクラ以外にもお酌係的な感じとか、男同士のコミュニケーションを女性に手助けしてもらっているシーンはいっぱいあるでしょうね。
ただ、当人たちの中には「女の人が潤滑油になってくれている」なんて意識はなく、むしろ「俺たちのおもしろ力で女子を楽しませてやってる」くらいに考えている可能性もあり……なかなか難しい問題だなって感じます。
男性たちがジェンダーバイアスに気が付くきっかけを増やしたい
ーー社会が作り出したジェンダーバイアスに疑問を持ち、向き合おうとしている人たちがいる一方で、草サッカーに精をだすパパたちのように、向き合う必要がないと思っている人たちがいて、彼らは何かをきっかけに気が付くときがくるのでしょうか。
太田さん:老後に妻から離婚をきりだされるでしょうね。そういう事案をたくさん担当していますから(笑)。
私が離婚の弁護を担当する中で、離婚を突き付けられて変わる人も中にはいますが、残念ながら、ごく少数。ある日「もうこんな生活無理です、子どもと実家に帰ります」と書き置きがあっても、そこで「俺が悪かった!」とはならないんです。
清田さん:ひええええ……。
太田先生:それで「俺は何にも悪くなかったのに出て行くのは妻の実家が洗脳してるからだ」とか「金目当ての弁護士にそそのかされている」とか、典型的なのは「男がいる」とありもしない浮気を疑う。
清田さん:逆に被害者意識を募らせてしまう。
太田さん:弁護士に相談するまでに、妻からの働きかけはきっと色々あって、変われるきっかけはあったはずなんだよね。
それをずっと聞かずに軽視して、無視して、積もり積もって離婚にいたった家庭を私はたくさん見ています。
その変われるきっかけをどう作るか、それをどう生かせるか大事ですね。
ーーそのきっかけも、基本は女性側が働きかけるという構図ですよね。
太田さん:もちろん、本当に対等で素晴らしいなっていうカップルもたまにいて、男性側に聞くと、だいたい「妻には何度も怒られたけれども、自分のことを諦めないでいてくれた。妻の話を聞いて少しずつ変わった。自分なんてまだまだです」と言うんです。
妻じゃなくても、彼女でも友達でも妹でも、身近な女性なら誰でもいいんですが、相手の話をきちんと聞けるか。そして、
自分のしていない経験を想像できるか。想像しようと思う意欲があるか。
そこで、「想像して話を聞かなければこの関係性が壊れてしまう」という焦りみたいなものがないから、自分の趣味や仕事だけにフルコミットできてしまうんでしょうね。
ーー清田さんは女性の友人の話をたくさん聞いて気づいたとのことですが、やっぱり自分では経験できないことを、たいていの男性は自分ごとには思えないんでしょうね。カップルでさえ伝わらないことが多い中、男の人が気づいて話し合おうとするきっかけって難しいですね。
太田さん:そのきっかけを世の中に増やしたいですよね。
清田さんは環境に鍛えられたところがあるけれど、鍛えられない環境にどっぷりいる人もいるわけですから。
とくに、日本の中枢にいる人って、中高私立の男子一貫校から有名大学に行き、社会的ステータス高い地位に至ったような人たちだから、彼らは彼らで、ホモソーシャルな世界の中で「仲間外れになりたくない」とか「空気を壊してはいけない」と思い、そこに染まらないのは難しかったのでしょうね。
実は私の講演でも、ホモソーシャルな世界のつらさを思い出したという男性の感想はすごく多くて、胸が痛くもなります。
だから、そのホモソーシャルな世界をどう解体するか、前向きに考えれば多分そこにものすごく伸びしろがあると思う。
清田さん:ホモソーシャルって別に、中にいる人たちも「ホモソーシャルです」と意識してそうなっているわけじゃなく、
面白い、モテる、頭がいい、運動ができるといった、その集団の中でいいとされている価値観を目指そうという方向性の中で発生していくものだと思うんですよ。
面白い人が肯定的に評価されるからみんな「面白いこと言わなきゃ!」ってなるし、そういう空気が知らぬ間に「もっと過激なことを言わなきゃ!」みたいな競争的コミュニケーションになっていく。
当の本人たちは、ホモソーシャルだとか、男同士の特徴的なコミュニケーションの取り方をしているという自覚すらないように感じます。
ーー無自覚となると、いったいどうすればいいですかね……。
清田さん:太田さんの話にもあったように、やっぱりクライシスを経験することは重要だなって感じます。本人にとってはつらいことですが、失恋とか挫折とか孤独とか、仲間やルートみたいなものから外れてしまう経験とか……そういうときに自分を見つめなおしたり、考えが変わったりすることが結構あると思うんですよね。
ーー清田さんはお友達の男性にそういうお話をされることはありますか?
清田さん:たとえば同じサッカーチームの人にジェンダーの話を振っても、「出たフェミニスト!」みたいに、ある種の“キャラ”として認識されているためノリの一環として処理されてしまう。
すでに出来上がってしまっている構造に小石を投げ続けることにも一定の意味はあると思いますが、ひとたびホモソーシャルな集団性が発生してしまうと、正直こちらに打つ手はないというか……。
ただ、一対一の関係になると少し変わってきて、「最近仕事が大変なんだよね」とか「サッカーに毎週行ってると妻が不機嫌になるんだよね」みたいな、個人的な身の上話になることが結構ある。相談されたり頼られたりという感じではないけれど、困ったときや弱ったときの話し相手くらいの存在にはなれているかもしれません(笑)。
太田先生:でも、「これはもしかして、清田さんが言っていた話か……」と思う瞬間があったのかもしれない。だから、そういう存在として清田さんがアピールしておくことはすごく意味があると思いますよ。
ーー同じ男性から、男性のつらさに気が付くきっかけを作る、というのはすごく貴重だと思います。そういう存在が少しずつ増えていけば、自分の感情を「話してみよう」と思う男性も増えるかもしれませんね。
<取材・執筆>KIDSNA編集部