何かに挑戦する子どもと保護者へ。パラ水泳・木村敬一と母が語る軌跡

何かに挑戦する子どもと保護者へ。パラ水泳・木村敬一と母が語る軌跡

2021.08.24

新しいことに挑戦したり、スポーツをがんばっている子どもに、「やり続けること」の大切さを感じている保護者も多いだろう。2歳で視力を失い、10歳から母のすすめで水泳を始めた東京2020パラリンピック日本代表の木村敬一選手はどんな道を歩み、どんな思いで泳ぎ続けてきたのか。母の正美さんとともにインタビュー。

東京2020パラリンピック競泳日本代表の木村敬一選手は、2歳のときに「増殖性硝子体網膜症」を患い、全盲になった。

小学4年生のときに母のすすめで水泳をはじめ、高校3年生のときに北京パラリンピックに出場。2012年のロンドン大会では銀メダル、銅メダルをひとつずつ獲得。2016年のリオ大会では、銀メダル2個、銅メダル2個を、その手に掴んだ。

2018年より拠点をアメリカに移し、この夏、4大会連続出場となる東京パラリンピックでは、悲願の金メダルを狙う。

障がいがある中で水泳に出会い、どんな想いで泳ぎ続けてきたのか。アスリートとして今日まで歩んできた道のりはどんなものだったのだろうか。ご本人と母の正美さんに聞いた。

木村敬一(きむら・けいいち)/1990年生まれ。滋賀県栗東市出身の競泳選手。2歳の時に先天性疾患のため視力を失う。単身上京した筑波大附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)で水泳部に所属し、2008年の北京パラリンピックから2016年のリオパラリンピックまで3大会連続出場を果たす。旗手を務めたロンドンでは銀メダル1個、銅メダル1個を獲得。リオでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得した。
木村敬一(きむら・けいいち)/1990年生まれ。滋賀県栗東市出身の競泳選手。2歳の時に先天性疾患のため視力を失う。単身上京した筑波大附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)で水泳部に所属し、2008年の北京パラリンピックから2016年のリオパラリンピックまで3大会連続出場を果たす。旗手を務めたロンドンでは銀メダル1個、銅メダル1個を獲得。リオでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得した。

2歳で視力を失い、6歳で親元を離れた

伝い歩きを始めたころ、角にぶつかりよく転ぶことが増え、念のため……と連れて行った病院で、先天性の目の疾患であることを告げられる。

最初の手術は2歳4カ月のとき。3回の入院、計7回の手術後、ご両親は木村選手を盲児として育てていくことを決心した。

敬一:「僕は、見えないことに疑問を感じたことも、怖いと思ったこともない。見えていた記憶がないから、僕にとっては見えない世界が当たり前なんです」

母:「敬一が子どものとき、視覚障がいがあることは全然わかりませんでした。『いずれ光を感じることもなくなる』と先生から告げられたときは、これからどういうふうに育て、フォローしていけばいいのだろう……そんなことばかりを思う毎日でした。

ただ、手術の前後で敬一の性格が変わらなかったことは救いでした。

盲児として育てていく中で、小学校入学前までは、危ないからひとりで外に行ってはダメと言っていましたし、自転車にのるときも、何かに当たったらUターンするよう伝えていました。

提供:母、正美さん
提供:母、正美さん

外で遊ぶとしても、誰かが側にいる状態で、自宅の敷地内や家の近所を散歩することがほとんど。そうすると必然的に家で過ごす時間が長くなります。

敬一は色を把握することができないので、『赤いリンゴ、緑のピーマン、青は海の色』というように色のイメージを伝え、雲がどういうものか説明するときには、手芸用の綿を触らせたりもしました。

ある日、豆ごはんを作る手伝いをしてもらったときのこと。豆がついていた、さやの部分のプチプチした触感が気になったようで、『これは何?』と聞かれたことがありました。それがどういうものか気になれば、よく質問をする子だったのです。

私が『これはお母さんと赤ちゃんをつなぐへその緒みたいなもの』と説明すると、敬一は『じゃあ、豆の皮はお母さんだね』と答えました。

私たちが目で見て判断することでも、敬一は触ったり、聞いたりして確認するしかありません。幼いながらも触感や、言葉のやり取りから、自分なりに情報を組み立てて理解し、考えているのだと感じたエピソードです」

提供:母、正美さん
提供:母、正美さん

プールの中は「思い切り体が動かせる場所」

片道1時間ほどの場所にある、滋賀県立盲学校の幼稚部から、そのまま小学部に進学した木村選手は、入学と同時に、わずか6歳で寄宿舎生活を送ることになる。

母:「学校が遠かったこともありますが、そもそも盲学校に通われている方は通学が困難という理由から、寄宿舎に入ることが多いようです。

6歳の我が子を親元から離して、生活させなければならなかったことは、断腸の思いでした。

休日は家で過ごし、月曜日の朝、敬一を学校に送り届ける。その帰りの車内、ひとりで戻ってくる時間がとても辛く、いつも後ろ髪を引かれていました。

もちろん当の本人も不安はあったでしょうが、『一年生になったら自分のことは自分で』という覚悟を決めていたようで、不安を口にしない意志の強さを感じたことを覚えています」

週末は寄宿舎を離れ、自宅で過ごしていた木村選手。特に3つ上のお姉さんが、木村選手を外に連れ出していっしょに遊んだ。ほかにも、点字が読めるようになり読書も楽しんでいたという。

※写真はイメージ(iStock.com/interstid)
※写真はイメージ(iStock.com/interstid)

しかし、小学4年生になり次第に体力を持て余しているのではないかとお母さまは心配するようになる。

母:「体が大きくなるにつれ、運動量が足りていないのではないかと思うようになりました。そこで体力づくりのためにと、スイミングをすすめてみたのです。

スイミングであれば、プールの中にいる間は、転ぶことも、どこかに行ってしまう心配もありませんから。

唯一不安だったことは、ゴーグルをするとはいえ、プールの塩素で目に炎症がおきないかということでした。本人から『僕の目は、もうこれ以上悪くならないよ』という言葉がでてきたことはびっくりしましたね。そこで私も覚悟が決まりました」

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泳げることが「武器」になっていった

通学のために6歳で寄宿舎生活を始めた木村選手は、その後、お父さまの勧めで中学受験をし、12歳の春、たった一人で上京。寄宿舎生活は続いた。

敬一:「小学生の頃も、中学生になってからも、同級生に水泳をやっている子がいなかったこともあり、『泳げること』が自分のアイデンティティであり、武器になっていきました。

好きだから、楽しいからというよりも、自分の持っている武器を磨き続けたいと思いましたし、水泳を頑張ることが、自分を鼓舞してくれるというか。

トレーニングは毎日同じではなく、4種類の泳ぎ方をそれぞれ練習したり、陸上をやったりもしていたので、飽きることもなく続けてこれました。小中学生の頃は、タイムが延びなくても割と楽観的で、挫折はほとんどありませんでした」

提供:母、正美さん
提供:母、正美さん

その冬、多くの教え子をパラリンピックに送り出し、日本代表のコーチも務める寺西先生に打診され、木村選手は中学2年から高校生やアテネパラリンピックに出場する選手たちと同じ環境で練習を開始。

そして高校3年生のときに、全競技を通じて最年少での選出で北京パラリンピックに出場した。

「人とのつながり」が、競泳人生を支えた

幼稚園から高校までの14年間、盲学校に通っていた木村選手は、日本大学文理学部教育学科に進学。ひとりで水泳を練習していた環境から、大学になって、健常者といっしょに水泳をするようになった。

在学中に、ロンドンパラリンピックに出場。その後、大学院進学と同時に東京ガスに就職し、スイマー兼大学院生に。2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは、目標にしていた金メダルには僅か届かず、銀メダル2個、銅メダル2個を獲得した。

そして2018年、母国開催である次の東京パラリンピックで金メダルを取るために、「環境を変え、これまでとは違う世界に飛び込もう」と、アメリカ行きを決意する。

※写真はイメージ(iStock.com/anyaberkut)
※写真はイメージ(iStock.com/anyaberkut)

敬一:「新しいことをしたいなっていう気持ちがあって。これまでの僕を見て、挑戦していると見てくださる人もいて、嬉しいですが、僕の根源にはずっとワクワクしていたいという思いがあります。今回、『闇を泳ぐ 全盲スイマー自分を超えて世界に挑む。』という本を書いたのも、練習のあとのいいリフレッシュになったし、書いている間は集中できて楽しくて、負担だとも挑戦だとも思いませんでした」

母:「敬一に決断力と行動力があるのは、幼いころから『何でもやってみた』からではないかと思います。

目が見えないから、嫌だと思っても触らないとわからないし、人と話してみないとわかりません。その積み重ねが、今の敬一を作り上げたのだと思います」

敬一:「自分が水泳していく中で、その時々に出会った人にとても影響を受けました。

水泳をはじめさせてくれた母、初めてパラリンピックの舞台に立たせてくれた盲学校でのコーチの寺西真人さんやその教え子だった河合純一選手、大学時代に水泳選手からアスリートにまでしてくれた野口智博先生、アメリカでコーチをしてくれたブラッドリー・スナイダー、練習仲間のマッケンジー・コーン選手、ほかにもたくさんの方々にお世話になりました。

生まれてからもうすぐ31年になりますが、僕は環境や周りの人にすごく恵まれていたと思っています。なかなか良い人生送ってますよね」

提供:東京ガス
提供:東京ガス

木村選手は、母からもらった言葉についても語ってくれた。

敬一:「メダルを取ったときに実家で取材を受け、『ご家族への思いは?』と聞かれたことがあって。そのときの僕はうまく言葉にできなかったんです。

ずっと家族と離れて生活していたせいもあるかもしれませんが、家族への感謝を伝えられない親不孝者だなと、自分のことが嫌になった。

そのときに母が、『ずっと離れて暮らしてたから当然。私たちは何をしてあげられたわけでもない。ただ、そのとき、その瞬間に誰かしらが近くにいてくれたと思うし、その人たちに感謝し続けられればそれでいいと思います』と言ってくれたんです。

僕はその言葉に救われた気がしました。

こうした人とのつながりは僕だけじゃなく、みんなが持っているものだと思うし、周りの人たちがいて幸せだなということを思い返してほしいなと思います」

※写真はイメージ(iStock.com/howtogoto)
※写真はイメージ(iStock.com/howtogoto)

母:「練習や食事の管理など、つらいこともたくさんあると思うんです。でも、敬一は競泳を続けていく中で、周りの方のサポートがあるからやってこれているんじゃないかな、そういう人たちのおかげで前向きに進んでいけているんじゃないかなと思います」

そうして木村選手は、アメリカでもさまざまな出会いとともに、新たな環境でトレーニングを続けた。

ところが2020年、アメリカでも新型コロナウイルスが広まり始める。利用していたプールも閉鎖され、流行収束の目途が経たない3月、木村選手は日本へ帰国。濃密な2年間を過ごし、木村選手は「水泳を続けてきてよかった」とアメリカでの日々を振り返る。

パラリンピックで「可能性に挑戦する姿を見てほしい」

日本に帰国し、ほどなくして東京オリンピック、パラリンピックが延期に。一年後の今夏、いよいよ、東京パラリンピックが開催される。

2008年の北京、2012年のロンドン、2016年のリオデジャネイロと出場してきた木村選手は、多様性が推進されていく日本社会の中で、人々のパラリンピックへの見方も変わってきたという。

敬一:「今回の東京大会は、未だかつてない規模で障がいを持ったスポーツ選手にスポットライトが当たる大会になると思います。

リオの前後でパラリンピックも注目されるようになり、オリンピック選手と同じような練習環境でトレーニングでき、『オリンピックとパラリンピック』と並べて表記してもらうことも増えてきて。

だからこそ僕らはオリンピック選手と同じような選手でいなければならないと思うんです。

障がいがある以上、同じだけの速さ、同じような身体をつくることは難しい。けれど、選手として世界と戦うための準備や、そのほかの行動、活動はオリンピック選手と同等、あるいは負けないくらいでなければいけないと思う。

提供:東京ガス
提供:東京ガス

僕らに求められているものは、以前よりも大きくなっていると感じます。それは喜ばしい一方で、僕らの責任は大きくなっている。

パラリンピックがオリンピックと同じようなものとして扱われ、ここまで注目されるコンテンツになり得たことは、すごいことだと思います。

いろいろな形で知ってもらうことによって、障がい者のスポーツ理解が進むと思いますし、障がいを持つ人に対する壁を取り払うとまではいかなくても、壁を下げることにはなる。

障がいを持つ僕たちからすると、スポーツは健常者とつながっていくツールなんです。僕が大学や社会に出てからも健常者とつながりがあるのは、水泳があったから。

つながるツールである以上、挑戦したほうがいいと思っているし、そのきっかけを作ることができるのが僕ら選手だと思っています」

最後に、木村選手と母の正美さんに、何かに挑戦する子どもたちに、そしてその保護者へ伝えたいことを聞いた。

母:「障がいを持つ、持たないに関わらず、子ども一人ひとりに関わる時間が大切だと思います。でも、それは親だけでなく、周囲の人に頼っていいのです。

特に障がいを持つお子さんのご家族は、家族みんながその子に関わる機会が増えますが、敬一がたくさんの人に囲まれ、たくさんの人にお世話になって、本当によかったと思いました。お子さんには、大勢の人に関わらせてあげてほしいです」

敬一:「スポーツをやっている子どもたちに伝えたいことは、『それをやっているときの自分のことが好きなら、やり続けたほうがいい』ということ。

ひとつのことにこだわる必要もないので、嫌だったら続けなくていい。大事なことは、ワクワクしているか、そんな自分のことが好きでいられるかどうかです。

そして今回のパラリンピックでは、子どもたちに、世界の舞台を見て心震えてほしいし、障がいを持つ中で自分たちの限界を超え、可能性に挑戦し続ける僕らの姿を見てくれたら嬉しいです」


<取材・執筆>KIDSNA編集部

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2021.08.24

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