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【SASUKE】新世代アーティストの「好きなこと」にこだわり続ける力
5歳から父親のパソコンで遊びながら作曲を開始した高校生のSASUKEさん。15歳でメジャーデビューを果たし、名だたるミュージシャンから楽曲提供の依頼が舞い込む。次々と新たな音楽を生み出すSASUKEさんを突き動かすものの正体とは何なのか。
「ここまで続けられたのは、音楽を誰よりも好きという自信があったから」
「両親とは趣味の合う友だちのような関係。言いたいことが言えるし、やりたいと言ったことは手伝ってくれた」
2歳でダンス、5歳で作曲、その後YouTubeで発信を始め、中学校時代にひとりで行った路上パフォーマンスがSNSで話題に。中学生でメジャーデビューや楽曲提供を果たし、そのマルチな才能で注目されているアーティスト、SASUKEさん。
現在、地元の愛媛で通信制の高校に通い、発信を続ける彼の「好きなこと」を追究する原動力、それを支えた家族とのかかわりはどんなものだったのだろうか。
たくさんの楽器や機材に囲まれた作業部屋から、インタビューに答えてもらった。
根拠のない自信がさまざまな挑戦を後押しした
――音楽に興味を持ち始めたのはいつ頃ですか?
音楽への興味は、物心つく前からあったと思います。うちは両親の趣味でいろいろなジャンルの音楽が常にかかっていて、テレビがあまりついていない家。だから生まれてからずっと、むしろ生まれる前から音楽を聴いていたように思います。
かかっている曲に合わせて、自然と体を動かしだしたのが2歳のときです。
こういう環境で育ったこともあり、小さいときから「音楽を作りたい」という気持ちは持っていたものの、手段がありません。
そんなときリビングに置いてあった父のパソコンから偶然ギターのアイコンを見つけました。それが簡単な操作で曲を作れるソフト「GarageBand」。しばらく触ってみると曲ができました。
――最初から独学だったのですね。その後も誰かに習うことはなかったのでしょうか?
ダンスは習いました。ダンスといってもいろいろなジャンルがありますが、僕は本当に全部好きで。さまざまなジャンルのダンススクールを掛け持ちして通っていましたね。
10歳の頃、ダンススクールの先生が、ニューヨークでダンスレッスンを受けたい生徒を募りました。その頃の僕は、映画や動画で海外のダンスの映像をずっと見ていたので「これはもう行くしかない」と、親を説得した覚えがあります。
――ニューヨークでは、アポロシアターで開催されたプロへの登竜門と呼ばれるアマチュアナイトで優勝されましたね。このままダンスを生業にしていこうとは思わなかったのですか?
ダンスに飽きたわけではありませんが、歳を重ねるにつれ、少しずつ音楽制作とのバランスが変わっていった感じです。
今は僕の中で、ダンスは楽器のひとつという位置づけです。たとえばライブ中、曲に乗せてキーボードソロのように曲に乗せて踊ったり。反対に僕は曲がないと踊れません。
アマチュアナイトで優勝する少し前、9歳の頃にフィンガードラムを始めました。フィンガードラムとは簡単にいうと、指先でパッドを叩いて演奏する機械のこと。
中学生の頃、東京に行ったときに原宿でフィンガードラムのパフォーマンスをしたら、たくさんの人が集まったんですね。で、その映像がSNSに拡散されたことで、さらに多くの人に見てもらうことができました。
――14歳で、たったひとりで路上パフォーマンスをするのは勇気のいることだと思います。緊張しませんでしたか。
あまり緊張することはないですね。
小さい頃から、親戚の集まりや結婚式の余興で踊ったりしたときに、みんなが高揚してザワザワする感じが気持ちよかった。そうした経験の積み重ねが、根拠のない自信につながったのだと思います。
今はもう少し現実的な部分も考えられるようになりましたが、この自信はあってよかったと思います。
フランクで何でも言い合える両親との関係
――ご両親はSASUKEさんに対して、普段どのように接しているのでしょう?
そうですね。親というよりも……友だちのような感覚です。昔から親が「そういう風に接していいよ」と言ってくれていた気がします。
両親の影響で音楽が好きになったので、今でも両親は“趣味友だち”のような感じですね。
周りの人からみると、反抗期がないように見えているようですが、うちのお父さんに言わせると「ずっと反抗期だったんじゃないか」と(笑)。
フレンドリーに接することができるからこそ、言いたいことが言える。自分の意見はきちんと伝えるし、それが間違っていたとしたら違うと伝えてくれる。否定されるようなことはありませんでした。
社会に出たときに人に迷惑をかけてはいけない、と最低限のマナーだけは守るように言われていますが、僕がやりたいことに関しては、基本的に背中を押してくれます。
音楽を作っていると、何時間でも部屋に籠って、出てくるのはごはんのときだけになることがあるのですが、「音楽をやっている間だけはそっとしておこう」と、父が母に話してくれていたようです。
最初は心配だったと思うのですが、今ではちゃんとやっていると分かってくれていると感じます。
――楽器や機材はいつごろから使っていたのですか?
最初に音楽の機材をほしがったのが、小学生のとき。
最初は「大丈夫?できる?」と心配されていましたが、いろいろ調べたうえで、誕生日やクリスマスに少しずつ買ってもらって増えていきました。
家族は音楽制作も手伝ってくれたこともあります。父はもともと動画編集が趣味で、母は小さいころから歌うことが好き。「こういうのが必要なんだよねー」と話したら「じゃあやろうか」と言ってくれて、MV撮影を父が手伝ってくれたり、母と弟がコーラスをやってくれたりしました。
「好き」が諦めない気持ちとこだわりにつながる
――親御さんと共通した趣味や、フランクな関係が幼児期のSASUKEさんを音楽へ熱中させていったんですね。でも、なぜここまで続けてこられたと思いますか?その原動力は?
たぶん……、「音楽が好き」という気持ちだけで、やってこれてるような気がします。
何か特別な理由があるわけではなくて、本当に誰よりも好きっていう自信を持って言えるので、それ自体が原動力なのかなと。
好きなことだからとことんこだわってやりますし、一曲つくって、できなかったことがあったらまた次を作りたくなるし。
だいたい何をしていても、作りたいものはいくらでも浮かんできます。インスピレーションは何からでも得ているので、毎時間のように曲が浮かぶ。きっとこれからも一生思いつき続けるのだと思います。
――小中学生の頃から本格的に音楽活動に打ち込まれていた中で、学業との両立は大変だったのではないですか。
学校は……いやでしたよ(笑)。
学校から早く帰って、ダンスをしたいし音楽もやりたい。「宿題だけは先に終わらせる」という家のルールがあったので、家に着いたらすぐに宿題を終わらせて、そのあとはひたすら音楽に打ち込んでいました。
学校では自分の好きな曲は誰も知らない曲だったりして。友だちも、好きな音楽を歌いだしたり、人目を気にせず踊りはじめる僕といるのが恥ずかしかったのか、離れてしまうこともありました。
「周りとは何か違うんだろうな」と、なんとなく違和感だけは感じていましたが、それでもあまり周囲を気にせず、自分の音楽のことばかり考えていました。
小さいころから、音楽以外のことに興味がそれることがないんです。映画を見たり本を読んだりしますけど、結局は音楽に転換されてしまうので。
音楽以外に興味がないからこそ、制作に打ち込み、追究し続けられるのだと思います。
――作詞家、サウンドクリエイター、アレンジャー、プロデューサーなどさまざまな人々が関わって作られる曲が多い中、SASUKEさんの場合はひとりですべてをこなしています。
みんなでひとつのものを作り上げるっていいな、と思うこともありますが、僕はこだわりが強いので、すべて自分で制御できる今の作り方に満足しています。
こだわる部分は曲によって異なりますが、その部分に関しては納得がいくまで妥協しません。
たとえば「この部分にこういう音を入れよう」と思ったら、その音作りにこだわり始めます。入れたい音が決まっているけれど、どこに入れるか決まっていないときは、ハマる部分を探し続けます。音を重ねすぎていると感じれば、どの音を引くべきか試し続ける。
そういう、曲の一部分にすごくこだわるんですけど、それを諦めない。これだ!って決まるまでは、やり続けることを大切にしています。
大好きな音楽を「仕事」にするときに決めた覚悟
――最初に楽曲提供のお仕事をされたのは何歳のときでしたか?
15歳のとき、「新しい地図」というグループに楽曲提供させていただきました。
両親の「“あの”元SMAPの……!?」という反応を見て、改めてすごい人たちなんだと感じました。こんなチャンスはない、やるしかないと思いました。
自分の好きな曲を作ることと、仕事で楽曲を作ることでは、もちろん違いや難しさがあります。
ありがたいことに「好きにやってください」と言っていただける場合もありますし、雰囲気やジャンル、イメージとなる曲、歌詞などのオーダーに沿って曲を作ることもあります。
依頼内容と自分の表現したいことにズレが生じるケースもありますが、仕事としてお金をいただいているので、そこはプロ意識を持って取り組んでいます。
――仕事としての音楽と、自分の表現活動としての音楽はどのように作り分けているのですか。
小さい頃は、曲と呼べるほどでもないものをいくつも作っていました。納得できなければすぐに次の曲を作り始めるし、納得できるものは完成まで辿り着く、という形です。
でも今は音楽が仕事になっているので、このスタイルは変わってきていて、ひとつ作り始めたら絶対に完成まで作り切ると決めています。
それまでは自分の好きな要素を盛り込んだものが作りたくて、マニアックな感じの曲を作っていましたが、メジャーデビューしたときに、自分なりにある決心をしました。
それは「ポップに、世間が興味を持つものを作る」ということ。仕事と自分の表現を完全に分ける決意をしたんですね。
それを実現するために、時事性や社会性を取り入れたニュースが参考になっています。
2019年3月に発表したセカンドシングル『平成終わるってよ』
いつだって「好き」で「楽しいこと」しかしない
――SASUKEさんが描く、今後のビジョンはどんなものですか。
今は地元の愛媛県に住んでいますが、今後は東京、海外へと活動の拠点を広げられたらいいなと思っています。
実は小学生のとき、親に希望を伝えたわけでもなく、受験をしたわけでもないのに、なぜか東京の中学校に行けるんだと思っていたんですよね。中学校の説明会の前日くらいのタイミングで地元の中学校に通うことを知り、泣いてごねるほど、東京に行きたかったんですよね。
全編、愛媛県で撮影された『夏ぼっち』
世界にはたくさんの人がいて、僕の曲を好きな人ばかりではないだろうけど、気に入ってくれる人や、好む人が多い国だってあるかもしれません。スタジオが豊富で音楽にすごく力を入れている国もあるので、やはり本場と言われる場所には興味がありますね。
世界に進出して、より多くの人に僕の曲を聴いてもらいたいという気持ちはありますが、それは明確な目標というわけではなく、これまでそうだったように、これからも自分が楽しいと思うことを全部やっていくだけ。
途中で飽きるものがあってもいいし、その時々の自分に任せています。
――「楽しいことをやるだけ」ってシンプルに聞こえますが、だからこそ難しいと思います。
僕は「Happy」を物事を決める基準にしていました。Happyなこと以外はしないと決めていて、道がふたつに別れたときは必ずHappyな方を選ぶ。
今は、「Happyじゃないと死ぬ」くらいの気持ち。だから「No Happy No Life」なんです。
僕が好きでやってる音楽、楽しくてやっている音楽で、たくさんの人がエネルギーを受け取ってくれたらいいなと思います。これからどんな景色が見られるのかは、僕自身、わからないからこそ楽しみですね。
<取材・執筆>KIDSNA編集部
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