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【富永京子】自己主張できない子どもが失っているもの
子どもをとりまく環境が急激に変化し、時代が求める人材像が大きく変わろうとしている現代。この連載では、多様化していく未来に向けて、これまで学校教育では深く取り扱われなかったジャンルに焦点を当て多方面から深掘りしていく。今回は、立命館大学准教授で、社会運動研究者の富永京子氏に話を伺った。
「自分の意見が言えるようになってほしい」
「自己主張できる子どもになってほしい」
NOが言えない、議論できないといわれてきた日本人、我が子にはこのような思いをもつ保護者も多いのではないだろうか。
IT化やグローバル化など社会の変化を受け、これからの時代を生きる子どもたちに必要なスキルとして、正解のない問いに立ち向かい、多様な人々と協働するための「非認知能力」が注目されている。
学校教育においても、2020年4月には学習指導要領が改訂。主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)の視点が重視されており、特定のテーマについて考え、一人ひとりが意見を出し合うグループワークなども授業に取り入れられていくようだ。
そのために、子どもが幼児期のころから私たち親は何ができるだろうか?
社会運動を研究する社会学者の富永京子さんに、多様化する日本社会のなかで、自己表現・自己主張することの大切さを聞いた。
自分の意見や異議を唱えられない日本の文化
――学校ではまだまだ、協調性が重んじられ、同調圧力が強いからなのか、自分の気持ちや意見、そして不満や主張を発信しにくいように思います。
日本の社会には、「人に迷惑をかけてはいけない」という意識が強くあります。
内閣府の「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査 (平成30年度)」の8カ国の比較調査で「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という項目がありますが、日本は最下位で約60%の人々が否定的に捉えていました。
つまり、「他人に迷惑がかからないからといって、何でも自由にしていいわけじゃない」ということですね。
同じ東アジアで割と近い立場にある韓国、その他欧米各国に比べても、日本人の若い世代だけが半数以上、自分の自由について否定的な考えを持っています。
自分の意見を主張しにくいのは、おそらく若年層だけではなく、高年齢層もふくめた日本人全体の課題でしょう。
大多数の意見なら「そうだそうだ」と賛同できますが、自分が少数派になったとき、大多数の意見に異議を唱えることがしにくい社会でもあると考えられます。
――それと同じようなことが、子どもたちが通う学校や教育の場でも起こっているように感じます。はっきり自己表現や自己主張をする子どもが、浮いてしまうのではないかと……。
日本では、空気を読まないとか、自己中心的だと言われがちですが、実は、さまざまな人が共生する社会のなかでは、自分の気持ちや意見を主張することは絶対に必要です。
それは、言い出した個人にとどまらず、「自分も同じ経験をした」「自分も同じことで困っていた」と、その周囲の人々の問題を解決することにつながるからです。
――多様性の中で、お互いが共生して問題を解決していくために、必要なスキルのひとつなのですね。
私は国や社会、学校に不平や不満を訴えて、人の意識のあり方や、その場のルールや制度を変えようとする「社会運動」について研究しています。
そこで行われる主張には、たとえば子どもの貧困をなくそう、賃金を上げよう、就職や入試における性差別をなくそうといったさまざまなものがあり、デモや署名活動などによって、これまで多くの人々の意識を変え、法律などの制度を変えてきました。
社会運動は、私たちが生きやすい社会をつくるために必要なものです。しかし、現代社会には、その行為を「わがまま」「クレーマー」「自己満足」と捉え、ネガティブに受け取る人や、批判の声も多いのが現状です。
――それはなぜなのでしょうか。
昨今は、自分の意見を伝えようとすると、「それはわがままだ、自分が悪い目に遭っているのは自己責任なんだから、それを社会のせいにするのはお門違いじゃないか」と言われる傾向がとても強いですね。
だけど、私たちは多かれ少なかれ社会の影響を受けているので、個人の身に降りかかったことであっても、社会から切り離されて起こることではありません。それすらできなくて、自分の責任にしてしまうことには大きな問題があります。
「ふつう」の固定概念があるから自分のことを伝えられない
――自分の意見を口に出す人を「自己中心的」で「わがまま」とみなすのは、「ふつう幻想」にとらわれているから、と著書に書かれていました。
一見、周囲の人々は自分と同じに見えるし、同じ属性のように感じるけれど、実際のところは一人ひとり違って当たり前ですよね。
日本の小学校や中学校のクラスを想像してみてください。
親世代が思い浮かべるのは、みんなが同じ年齢で、髪は黒色。日本で生まれ育ってきて、日本国籍を持っている。血縁関係のある両親に育てられ、その保護下にある。恋バナをするときには、かっこいい/かわいい“異性”の話をするのが「ふつう」のクラスメイト像ではないでしょうか。
しかし、下記のデータを見てください。これは、専門家や専門機関が集めた各種データから、その割合を30人のクラスに当てはめてみたものです。
「みんな同じ」に見える日本の社会も実は、このように異なる背景をもつ人たちを含めて構成されているのです。
しかし現実には、この「一人ひとりが異なる背景をもつ」ということについて、私たちは気づきにくいですよね。
それはなぜかというと、自分の背景を隠し、困っているのにがまんをしたり、自分の意見や悩みを言わずに努力しなければと思う人が圧倒的に多いからです。
その結果、集団には「ふつう」という幻想が生まれます。
たとえば学校の制服ひとつとっても、経済的余裕があったり、近所の人からおさがりをもらえる家庭にとっては買って用意することに問題ありませんが、経済的な困難を抱えていたり、近所づきあいが円滑でなかったりする家庭では、制服を調達することが大きな負担となります。
それでも多くの場合は、無理をしてでも制服を用意するため、見かけ上みんな同じ制服を着ている状況が作られます。
このような経済格差は目に見えない場合が多いため、子どもたちは同じ教室のなかに、経済的困難を抱える人がいることに気が付きにくいのです。また、制服を用意するのがむずかしい側にいる人たちも、自分から事情を言い出しにくい状況にあります。
経済的な問題だけでなく、個人の出自やライフスタイルが多様化しているからこそ、言わなきゃわからないことはすごく多いですよね。しかし一方で、暗黙の了解が成り立ちにくく、「自分もこうだし、みんなもこうだよね」という感覚が薄れています。
――みんな言わないから、どんどん、集団の「空気を読む」力も強くなっていきそうです。
この「ふつう」をみんなが無理して維持していれば、自分の事情や意見を主張した人が「わがまま」「自己責任」と批判されるし、逆に成功した人に対しては、たとえ偶然得たものや、生まれ育ちによって得たものであったとしても、すべて努力によるものだという発想になりがちです。
以前、ドイツ語圏の友人に、「自分の成功も失敗も、自分のものにしたがるのが日本人の特徴だ」といわれたことがあります。
少なくともその人の生活する文化圏ではそういうことはあまりなくて、個人の成功も、運、社会、環境など外部要因によるところが強いと考えるそうです。努力というのは重要だし、やるべきだけれども、結果としてそれが100%自分への評価を決めるわけではないと。
日本では、人それぞれが生まれた環境や背景を考慮に入れず、たとえば「いい大学に入った人はとにかく偉い、がんばり屋だ」といった評価がされがちですよね。
子どもが自分の気持ちや意見を言うために
――子どもたちに実感を持って自己表現できるようになってもらうには、どんな身近な例があるでしょうか。
政治や社会というと一見「遠い」印象を持たれますが、子どもたちが日々、学校や家庭で自分の気持ちや意見、不満を周囲に伝えることも、立派な「社会」であり「政治」です。
たとえば学校であれば、誰かクラスメイトの一人がえこひいきされているようでモヤモヤする。理不尽な校則やルールに納得がいかない。そのような不満を口に出すことは何がしか社会に関わることであり、政治に働きかける芽を作るものでもあります。
先日、参考になるような、おもしろい事例を耳にしました。
とある全寮制の中高一貫校で、寮の食事の酢豚にパイナップルを入れないでほしいと栄養士さんに直談判した生徒がいたそうです。しかし、決められた栄養素を摂取しなければならない食事で、パイナップルを抜くとビタミンが減ってしまうからそれはできないと返されてしまった。
そこで彼は仲間と、パイナップルを別の皿に盛って出す案を考えました。それなら、一緒に食べたい人にも、デザートとして別で食べたい人にも支障がないし、ビタミンも摂れると。
結果、その案は通されました。その方は、この問題の解決が、声を上げたことでみんなの利益につながった、初めての成功体験だったと言っていました。
――家の中の社会や政治にはどんなものがあるのでしょうか。
家のなかでも、極めて小さい政治が日々行われています。
昨年刊行された『ポリティカル・サイエンス入門』(坂本治也・石橋章市朗編)という政治学の教科書があるのですが、そこでは、友だちと食事の場所を決めるプロセスが既に「政治」なんだ、という書き方がなされています。つまり「みんなでなにか決めること」が既に政治なのだと思います。
それと同じように、たとえば家族みんなが食べる今日の夕食のメニューを決めることも、身近な政治のひとつでしょう。そう考えると、「今日はハンバーグじゃなくてオムライスが食べたい」と異議を唱えることも立派な自己表現だし、自己主張です。
親は「言いやすい空気づくり」と「言葉を奪わない」
――さまざまな人と共生する学校、そしてゆくゆくは社会に出て、子どもたちが自分の気持ちや意見を言えるために、いま必要なことはなんでしょうか。
私は子育てや教育の専門家ではありませんが、社会の多様化の状況を考えると、自分の気持ちや考えを相手に伝えること、そして同じように相手の話を聞けることなのかなと思っています。
一人ひとりの置かれた背景や環境がそれだけ違うということは、利害も違うわけですが、まずは声を上げないとお互いにその違いに気が付けません。そのために、まず保護者の方は家庭で、子どもが「自分の気持ちや意見を言いやすい環境や空気を作る」ことでしょうか。
その上で、子どもの気持ちや意見、好みなどを遮断したり誘導したりするようなことを言ってはいけないと感じます。
たとえば子どもに、そのとき流行っているアイドルグループを指し「このなかの誰が好き?」と尋ねると、なんとなく「誰か選ばなきゃいけないのかな」と思わせてしまいますよね。その中で「いや、アイドル好きじゃないし」とか「他のグループが好きなんだよね」と言えるような質問の仕方、選択肢の与え方が大事なのかなあと。変な例ですが(笑)。
私は子どもたちよりかなり年上の学生とふだん接していますが、年少者って思った以上に大人の顔色やその場の空気を読んでしまう。空気を読んで、本当に思っていることを言えないとか、思ってもないことを言ってしまうという経験を積ませるより、子どもが本当に好きなものを口に出せる雰囲気をつくることが大切ですよね。どんな内容の話であっても、勝手にこちらで決めつけず、向こうから言葉が出るのを待つ姿勢が大切でしょう。
私も先日、「先生、ぼくらの言葉を奪わないでください」と学生に指摘され、反省したことがありました。
とある公の場で学生を紹介する際、私が代わりに彼らについて話そうとしたのですが、そのとき学生に「自分で自己紹介したいです」と言われて。つまり、こちらとしてはよかれと思ってやったことが、結果的に彼らの言葉を奪うことになってしまったと気づかされました。
私が社会運動を研究しているなかでも、LGBTQや障害者の方の支援運動をしている人から、「マジョリティがマイノリティの言葉を奪ったらだめなんだ」という声を耳にします。
静かにそばにいて支援することがよきアライ(理解し支援する方)の仕事だと。それはきっと、大人が子どもに対して接するときにもある程度同じことが言えるのだと思います。
――親自身が、自己表現や自己主張することが悪いことではない、と認識を新たにすることも必要ですね。
主張している人を見て「うるさい」だとか「変わっている」という反応をしないこと、そして迷惑だと思わないことも大切ですね。
比較的若い年齢で社会運動をしている学生などを見ていると、先生や保護者の方が運動に参加していることが多く、周りの大人が異議を唱える姿を見慣れていると、自分自身も言えるようになっていくということが見て取れます。
大人が、自己表現や自己主張をする人たちに冷笑的だと、子どももそれを内面化し、自分の気持ちを隠すようになってしまいます。せめて主張している人に対し、冷たい目線を浴びせないことが重要です。
一人ひとりが声を上げない限り、多様でさまざまな背景をもつ人々のいる社会では相互理解も進んでいきません。自分の気持ちや意見を口に出すことは決して「わがまま」「自己中」ではなく、誰かの問題や困りごとを解決することにつながり、よりよい社会、より生きやすい社会へと向かっていくのです。
だからまずは、“小さな社会”である家庭で、そして学校で、「自分の気持ちや意見を話しても大丈夫なんだ」「自分が困っている事情を解決しようと主張してもいいんだ」と思える、安全な空気を作っていくことからはじめたいですね。
<撮影>小林久井(近藤スタジオ)
<取材・執筆>KIDSNA編集部