松坂大輔の決勝ノーヒットノーランよりすごい…「甲子園で永遠に破られない記録」を出した左腕が消えた日
ボールを握る代わりに銃を持たされ、わずか24歳で…
Profile
夏の甲子園における最高の投手は誰か。ライターの栗下直也さんは「戦前の甲子園で活躍した、嶋清一はその一人だろう。前人未到の記録を達成した若者は、戦争が奪うものの大きさを静かに、雄弁に語りかける」という――。(第1回)
「悲劇の甲子園優勝投手」の最期
毎年夏、甲子園球場で繰り広げられる熱戦を見るとき、私は86年前に同じグラウンドで伝説を作り、戦地で散った一人の青年がいたことを思い出す。
1939年8月19日、海草中学(現・和歌山県立向陽高校)の左腕・嶋清一は、第25回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の決勝戦で9回を投げ抜き、下関商を相手にノーヒットノーランを達成した。決勝でのノーヒットノーランは59年後に松坂大輔が成し遂げるまで誰も並ぶことのない大記録だった。
驚くべきことに、嶋は決勝のみならず、準決勝の島田商戦でもノーヒットノーランを達成していた。全国大会の頂点を決める最も重要な2試合で、相手打者を完全に封じ込めたのである。準決勝・決勝での2試合連続ノーヒットノーランは「甲子園で永遠に破られない記録」として今も語り継がれている。
この前人未到の大記録を打ち立てた6年後の1945年3月29日、嶋は南シナ海で24歳の若さで戦死する。
MAX155キロの速球と縦に落ちるカーブ
嶋は1920年12月15日、和歌山市で生まれた。日本通運で馬力引きとして働く父のもと、貧しくも温かい家庭で育った。小学生時代から野球に熱中し、海草中学入学後は一塁手として活躍していた。
1936年、監督のすすめで投手に転向する。監督がつきっきりで嶋のフォームを細かく分解、修正する熱血指導のかいもあり、頭角をあらわすまで時間がかからなかった。だが、嶋には弱点があった。試合の終盤まで完璧に抑えていても、ピンチになると一気に崩れた。その繰り返しだった。
投手として甲子園には1937年夏、1938年春、夏、1939年春と出場していたが、37年夏のベスト4が最高だった。OBや後援会からは「もう嶋に投げさえるな」という声も出た。
繊細で押しに弱い性格だった嶋は先輩捕手とのコミュニケーションに周囲が思う以上に苦しんでいた。ボールを投げたり、フォアボールを出したりすると、先輩の捕手が露骨に嫌な顔をするため、ますますストライクが入らなくなる悪循環に陥っていた。萎縮して、自分の投球を見失ってしまっていた。
実際、1939年に最上級生となると、先輩に気兼ねすることがなくなり、嶋は躍動する。春の甲子園は敗れたが、大会前から苦しんでいた神経痛と試合中にできた血豆が原因だった。突如、乱れる悪癖は見られなかった。
もともと身体能力は抜群だった。100メートル11秒で走る俊足と、1メートル65センチの跳躍力。その肉体から放たれる最速155キロといわれた速球と、「懸河のドロップ」と呼ばれた縦に落ちるカーブはまともに投げさえすれば誰にも打てなかった。