「本当の漫画家」になれず精神状態が悪化していた…やなせたかしが「手のひらを太陽に」に込めたせつない思い
絵本「あんぱんまん」を出す前に作詞した童謡が国民的ヒット
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朝ドラ「あんぱん」(NHK)では、やなせたかしをモデルとする嵩(北村匠海)がマルチに活動する。やなせの評伝を書いた青山誠さんは「昭和28年、三越を辞めたやなせは漫画家としては失業状態。テレビの台本など、いろんな仕事を引き受けていた」という――。 ※本稿は、青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
三越を退職し「本当の漫画家」を目指すが…
便利屋稼業の仕事は際限なく広がり、昭和36年(1961)には作詞家の仕事をやることになった。日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)で、宮城まり子が司会するワイドショー番組の構成に携わっていたのだが、この番組内の企画「今月の歌」に使う歌の作詞を頼まれる。
この頃のやなせは、精神状態がかなり悪かった。便利屋稼業で迷走するうちに、自分が何者なのか、何をやりたかったのか、この先、自分はどうなってしまうのだろうか。と、不安にさいなまれていた。それを考えると眠れなくなる。仕方がないので、起きて本を読もうかと電気スタンドのスイッチを入れる。この時に、なにげなく灯あかりに手をかざしてみたところ、血管が紅あかく鮮やかに映しだされた。それを見て、
「美しい」
なぜか、そう思って感動してしまう。
いずみたくと組んだ「手のひらを太陽に」
電気スタンドにかざした自分の手に見惚とれて、しばし眺めつづけていた。すると『手のひらを太陽に』の歌詞が頭に浮かんできたという。頭に浮かんだ歌詞を紙に書いてみると、それは自分を鼓舞する応援歌のように思えてきた。気に入った。すぐに曲をつけて聴いてみたくなり、
「たくチャン、歌詞あるから曲をつけてくれない? お金はないんだけどね〜」
舞台の仕事で親交があった作曲家いずみ・たくに、友達のよしみで作曲をお願いした。こうして完成した曲を番組内で宮城まり子が歌ったのだが、当初、世間の反応は薄く話題にもならなかった。
しかし、昭和37年(1962)にNHK『みんなのうた』で放送され、さらに昭和40年(1965)の紅白歌合戦でそれをボニージャックスが歌ったところ大反響があり、レコードが大ヒット。その後は小学校の音楽教科書に掲載され、多くの歌手にカバーされてCMなどにも使われるようになった。世代を超えて歌い継がれ、現在は日本人なら誰もが知っている超有名な歌になっている。
昭和39年(1964)4月からは、NHK『まんが学校』にレギュラー出演するようにもなっていた。