「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
織田家の娘、浅井・柴田両家の妻としての立場
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羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで、勝家の妻・お市の方は勝山城での自害を選択する。国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授は「武家社会ではどう生きるかとどう死ぬかは不可分であり、お市の方の選択は彼女の生涯を武家の女性として完結させる行為だった」という――。(第3回) ※本稿は、フレデリック・クレインス『戦国武家の死生観』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
なぜお市の方は勝家と共に死を選んだのか
勝家とともに死を選んだお市の方の最期について紹介しましょう。典拠としたのは、お市の方の次女であるお初(常高院)に仕えた女房による「渓心院文けいしんいんのふみ」という覚書です。
北陸の勝山城で柴田勝家が羽柴秀吉軍に包囲されたときのこと。
柴田勝家は、正室のお市の方に3人の姫たちを連れて城を出るよう懇願した。しかし、お市の方はこう答えた。
「かつて浅井家のときに逃げ出したことさえ、いまでも悔やまれます。どうして今度も逃げ出すことができましょうか。柴田殿と運命をともにいたします。ただ、姫たちだけは城を出させていただきたい」
お市の方は、兄信長公から厚く信頼されていた筑前守(羽柴秀吉)であれば姫たちを粗末には扱わないだろうと考え、自筆の手紙を添えて姫たちを託すことにした。
姫たちは一台の輿こしに乗せられ、大勢の女中たちが付き添って送り出された。お市の方は三の間まで見送り、その姿は非常に美しく、実年齢よりもずっと若く、22、3歳にも見えたという。
敵陣も、姫様方がお出ましになるとあって、さっと道を開け、お供の女中方を通したとのことである。