ガンにもバブル崩壊にも負けず…軽自動車を作った男・鈴木修の意志は、パキスタンの小さな村にまで根付いた
乗り合いタクシーは「スズキ」と呼ばれていた
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昨年末に94歳で亡くなるまで、40年以上にわたってカリスマ経営者であったスズキの鈴木修元相談役。1980年代に入ると働き盛りを病魔に襲われ、さらにバブル経済の隆盛・崩壊とも向き合うことになっていく――。 ※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
軽市場に再参入したホンダ
1974年に乗用の軽自動車生産を休止したホンダが、「トゥデイ」を発売したのは1985年。最初は「アルト」と同じく商用で、88年には乗用も発売した。
実質的に一般ユーザー向け軽自動車への再参入だった。
ホンダの元幹部は言う。
「(本田宗一郎と並びホンダを創業した)藤沢武夫さんから、『お客様の顔を見て売れ』と我々は言われた。スズキが得意とする業販ではなく、ホンダのディーラーとして売れという意味でした」
こうして、85年に立ち上がった販売チャネルがホンダプリモ店(ベルノ店、さらにクリオ店とともにHonda Cars店に2006年に統一された)。
スズキとホンダの決定プロセスの違い
社長だった本田宗一郎と副社長だった藤沢武夫は、1973年10月に一緒に引退していた。
藤沢武夫著『経営に終わりはない』(文春文庫)には、次のようにある。
《私は本田の隣に行きました。 「まあまあだな」 「そう、まあまあさ」 しかし、実際のところは、私が考えていたよりも、ホンダは悪い状態でした。もう少し良くなったところで引き渡したかったのですが。 「ここでいいということにするか」 「そうしましょう」 すると本田はいいました。 「幸せだったな」 「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」 「おれも礼をいうよ、良い人生だったよ」 それで引退の話は終わった》 |
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美しい話として、藤沢は自著で二人の創業者の引退シーンを描いている。しかし、現実はきれい事で表現されるものではなかった。
ホンダ元幹部はいう。
「生涯エンジニアだった宗一郎さんは引退できました。しかし、ホンダの経営を担っていた藤沢さんは引退などできなかった。
二人が引退を発表した後、残された経営陣はみなサラリーマン。創業者とは違い、どうしても、決定ができないのです。このため、藤沢さんにお伺いをたてに行き、決断を仰いでいた。軽への再参入のときもそうだったのです」
重要案件を含めて鈴木修がすべてを1人で決するスズキとは、ホンダは決定プロセスが違っていたのだ。