「パンはいっぱいあるのに、なぜアンパンマンはあんパンなのですか」やなせたかしさんが子供たちの問いに答えた“納得の理由”
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「パンはいっぱいあるのに、なぜアンパンマンはあんパンなのですか」やなせたかしさんが子供たちの問いに答えた“納得の理由”(葉上 太郎) 「やなせライオン」秘話 #3
〈戦後、ひとりぼっちになったやなせたかしさん…ライオンの石像、三越ライオン像、『やさしいライオン』の3頭が運命の歯車を動かし始めた〉から続く
「アンパンマン」を生んだ漫画家、故やなせたかしさん(1919~2013年)は高知県南国市の後免(ごめん)町が故郷だ。伯父が開いていた「柳瀬医院」に身を寄せて成長した。だが、医院は伯父が亡くなるなどして廃業。やなせさん自身も東京での仕事に忙しく、故郷との縁は切れていた。そんなやなせさんと後免町を結びつけたのは、小学5年生が柳瀬医院跡の空き地で“発見”した1体のライオンの石像だった。やなせさんはこの石像に「やなせライオン」と名づけて小学校へ寄贈。約70年ぶりに母校を訪れるなど交流が始まっていく。
やなせたかしさんは「超遅咲き」の漫画家だ。
50歳で出版した絵本『やさしいライオン』(フレーベル館刊)が出世作となり、『アンパンマン』の連載が始まった。ただ、その頃のアンパンマンは青年向けの内容だった。
54歳の時、幼児向けのストーリーに変更し、2年後にはタイトルを『それいけ!アンパンマン』と変える。あんパンでできた自分の顔を困った人に食べさせて助ける物語が「残酷だ」と、当初は大人の評判が芳しくなかった。ただ、幼児には絶大な人気が出た。そして1988(昭和63)年、テレビアニメの放映が始まると大ブレイクした。やなせさん69歳の時だ。
そんなやなせさんに故郷の子供達から手紙が届いたのは、さらに後の2002年、83歳になっていた。
柳瀬医院の跡地で当時の小学5年生、山島孝仁(たかひと)さん(33)がライオンの石像を“発見”し、どうしてそのような物があるのか、クラスで手紙を書いたのだ。
これがきっかけとなり、やなせさんと子供達の交流が始まる。
それから1年後の2003年8月、やなせさんはライオンの石像に「やなせライオン」と命名して、母校の後免野田小学校へ寄贈した。
後免野田小学校のキャラクター「Gちゃん」「Nくん」も考案してプレゼントした。Gは後免、Nは野田の意味だ。南国市立になる前の小学校は、旧後免町と旧野田村の「組合立」として発足した。この時代に通学したやなせさんにとって、後免と野田は校名以上の意味がある。