「いいね」は「どうでもいいね」と同じ…「いやな感じ!」と言われた岡本太郎がすっかり嬉しくなったワケ
いやったらしいまでの生命感こそが美しい
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「美しさ」とは何か。芸術家の岡本太郎さんは自著『自分の中に毒を持て〈新装版〉』(青春文庫)のなかで「美とは場合によって、醜いことさえある。無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする」という――。
「いやな感じ!」と立ち去った女性
先年、東京のデパートで大規模な個展をひらいた。ある日、会場に行くと、番をしていた人が面白そうに、ぼくに近づいて来た。にやにや笑いながら報告するのだ。混みあった場内でもちょっと目に立つ女性が、二時間あまりもじいっと絵の前に立っていた。そのうちにポツンと、「いやな感じ!」そう言って立ち去った、という。
報告しながら、相手はぼくの反応をいたずらっぽくうかがっている。さすがの岡本太郎もギャフンとするだろう、と期待したらしい。ところがぼくは逆にすっかり嬉しくなってしまったのである。
それで良いのだ。絵を見せた甲斐があるというものだ。その人こそ素晴らしい鑑賞者だ。
ただ不愉快なものならば、そんなに凝視しているはずがない。ちらりと見て、顔をそむけて行ってしまう。いや、見もしないだろう。それだけ見つめたあげく、この発言。
「あら、いいわね」
「しゃれてるじゃない」
「まことに結構なお作品」
なんて言われたら、がっかりだ。
「美しい」と「きれい」はまったく違う
こちらは自分の生きているアカシをつき出している。人間の、ほんとうに燃えている生命が、物として、対象になって目の前にあらわれてくれば、それは決して単にほほ笑ましいものではない。心地よく、いい感じであるはずはない。
むしろ、いやな感じ。いやったらしく、ぐんと迫ってくるものなのだ。そうでなくてはならないとぼくは思っている。
ぼくは『今日の芸術』という著書の中で、芸術の三原則として、次の三つの条件をあげた。
芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。それが根本原則だ、と。
はじめて聞いた人は、なんだ、まるで反対ではないか、と呆れるかもしれない。
しかし、まことに正しいのだ。すでに書いたことだから、ここでは繰り返さないが。
ただ一言、「美しい」ということと「きれい」というのはまったく違うものであることだけをお話ししておきたい。