ナポレオンはただの「独裁者」ではなかった…30歳でフランスの頂点に立った男が「地方の声」を重視した理由
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フランス革命後の混乱を収拾し、皇帝となったナポレオンとはどんな人物だったのか。広島大学准教授の藤原翔太さんは「独裁者というイメージが強いかもしれないが、実は地方の世論に敏感で、地方住民の声に絶えず耳を傾ける政治家だった」という――。 ※本稿は、藤原翔太『ポピュリスト・ナポレオン 「見えざる独裁者」の統治戦略』(角川新書)の一部を再編集したものです。
「お飾りの指導者」には満足せず
1799年12月、ナポレオンがフランス統領政府の第一統領に就任した時、彼はまだ30歳、皇帝に即位した時でも35歳にすぎなかった。
若くして国のトップに立ったナポレオンだが、彼は玉座で腕組みしながら、自分よりも年上の経験豊かな大臣や国務参事官らに政治を任せて、報告を聞くのに満足するような人物ではなかった。それどころか、些細な事柄でも可能な限りすべての情報を集めて、専門家の意見を聞きながら必要であれば質問し、最終的には自分で決断する政治家であった。
しかも、相当有能であったようだ。彼が30代前半で作り出した諸制度には、国務参事院、県知事制度、リセ(中等学校)、レジョン・ドヌール勲章、フランス銀行など、現在でもフランス国家の礎となっているものが数多く含まれている。そのうえ、ナポレオンが民法典(いわゆるナポレオン法典)の編纂を主導したことは、よく知られている事実である。
優秀な側近たちが若造を支えた?
確かに、歴史家の中には、「ナポレオン体制は軍事的勝利を重ね続けなければ、存続し得なかった」として、支配体制の構造そのものに否定的な評価を下す者もいる。だが、ナポレオン時代に作り出された近代的諸制度の多くは現代のフランス国家の骨格をなしており、この事実だけを取り上げても、ナポレオン体制が、軍事的勝利がなければ簡単に崩れ落ちてしまうような「張りぼて」であったとは、考えにくい。
では、なぜ30歳になったばかりの軍隊出身の若造が、激動のフランスにおいて政治を主導し、これら多くの偉業を成し遂げることができたのだろうか。
一点目として、彼は優秀な側近たちに取り囲まれていた。ナポレオンは議会をさほど重視しなかったが、専門家の意見を大事にして、「密室」という条件ではあるが、しっかりと議論することを好んだ。立法作業を担う国務参事院のメンバーには各部門選えりすぐりの知性が結集し、ナポレオン主宰のもとでフランスの近代的な諸制度を作り出していった。
ナポレオンの「相談役」を務めた第二統領のカンバセレスは法律の第一級の専門家で、民法典の編纂でも大いに活躍したし、大臣の中には、外務大臣のタレーランや警察大臣のフーシェといった歴史上の傑物もいた。