織田信長でも三好長慶でもない…将軍をすげ替える政変起こし"戦国三大愚人"に数えられる武将の名前
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なぜ、戦国時代に将軍交代は常識化したのか。日本中世史の専門家である古野貢さんは「織田信長以前に、自分の意のままになる新しい将軍を用意したうえで、時の将軍を追放した先例が影響している」という――。 ※本稿は、古野貢『オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
「戦国三愚人」にされてしまう武将
注目すべきポイントがいろいろある細川政元(1466~1507)ですが、彼の名前でインターネット検索をかけてみますと、少し気になるワードが引っかかります。
「戦国三愚人(戦国三大愚人)」です。つまり、政元は戦国時代の愚か者三人のうちの一人だ、というのです。他の二人は中国地方の名門大名・大内義隆と、「海道一(東海道一)の弓取り」と呼ばれた今川義元の跡継ぎである今川氏真うじざねです。
どうして政元はこんな評価を受けてしまうのでしょうか。
ひとつには、従来の制度を次々と覆していく彼の革新性に周囲がついていけなかったということが考えられます。
ゲームチェンジャーという言葉があります。ゲームの仕組みそのものを変えてしまうような役割を果たした人、を意味します。中世日本を破壊し、戦国時代の幕を開けたゲームチェンジャーといえば織田信長だ、と従来から言われてきました。しかし、革命的な人物だと思われてきた信長に対する評価は最近かなり落ち着いてきて、むしろ意外に保守的な志向性を持った人物であった、とみなされるようになってきています。
その上で、信長が活躍できた前提として、細川氏に仕えた三好長慶こそが信長に先立つ革命的な動きをした人物であるという評価がなされるようになってきました。確かに長慶は時代を先取りするような社会構造の変容をある程度実現させました。室町幕府に直接由来する公的なポジションにいなかった人物が政治的実権を握ったのは、その通りなのでしょう。
家臣が将軍を替えるアンタッチャブルな行為
しかし、やっていることからすれば、長慶よりも十数年前に活躍した人物である政元の方がよほど革新的であり、当時の人々からすれば、さぞとんでもないことをやっていると捉えられたのではないかと思ってしまいます。政元は当時の常識や慣習を堂々と無視してしまうような人物であり、強烈なパーソナリティをもつ人物であったのは間違いないと思われます。
政元は、「明応の政変」において本来の将軍を追い払い、新しい将軍を立ててしまいました。これは、それまでの室町幕府におけるスタンダードな政治的あり方からすればかなり異質なものでした。そもそも「家臣が将軍を取り替える」ということは手をつけてはいけないアンタッチャブルな行いであったわけです。
一部の例外を除いて、代々の足利将軍は自分自身が後継者を決める形になっていたはずなのですが、十一代将軍の義澄を立てる際には、将軍ではない政元が十代将軍の義材よしきを追放する形で決めてしまいました。ここには将軍就任における本来のあり方ではなく、将軍よりも下位の立場である政元の意思が優先されています。