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脳が育まれる“自分軸”を大切にする子育て【無駄づくり 藤原麻里菜×脳神経科学者 青砥瑞人】
あえて無駄なものを発明し、世の中に発信する株式会社無駄づくりの藤原麻里菜さんと、人間の脳の可能性を探究する応用神経科学者の青砥瑞人先生の対談記事。藤原さんと青砥先生は、他人の評価に惑わされずに好奇心に向かって突き進んでいる。SNSや他人の目が気になりやすい現代だからこそ、強い好奇心や自己満足を大切に生きる秘訣を聞いた。
「オンライン飲み会緊急脱出マシーン」や「帰って4秒で就寝装置」などあえて無駄なものを発明し続ける株式会社無駄の藤原麻里菜さんのユニークな生き方を、応用神経科学者の青砥瑞人先生に解明いただく本企画。
前回は、藤原さんの無駄づくりをとおして、有用性や目的だけではなく好奇心や「好き」を大切にする考え方を聞きました。
今回の対談では、どうしたら他人軸での評価にまどわされずに、自分のものさしを持った子どもが育つのか。自分のなかで大切なものを守るにはどうしたらいいか。肩肘を張らずに生きる秘訣が見えてきます。
他人軸に左右されない自分なりのものさしを持つために「言語化をしない」こと
ーー前回のお話で、無駄かどうかを判断するのは人によって違うし、脳が勝手にラベルを貼っているということでしたが、子どもが物事の価値を自分軸で判断できるようになるためには、どのようなことが必要だと思いますか?
藤原さん:意味や言語化を求めないことが大事なのかなという気がします。たとえば子どもがお絵描きをしているときに、大人は「これは何?」などと言語化を求めがち。でも、好奇心のままに何かをしているときって、言語化できない部分が多いですよね。アートやモノづくりでも「単純に好きだから」「色がなんかきれいだったから」みたいに漠然としていることが多いから。
それを大人があまり責めすぎないというか、根掘り葉掘り聞かないほうがいいのかな。言葉にできない部分には大切なことが含まれていて、言葉にできないからこそ自分の心の中にたまっていくものがあると思うので。言葉にする領域と言葉にしなくてもいい領域があることを教えてあげるといいのかなと思いました。
青砥先生:そこは僕もめちゃくちゃ大事だと思います。脳科学的には感情や感覚的なところは非言語的領域とか非陳述記憶と呼ばれていて、言語化しづらい情報として保存される領域です。
言語は便利だし人間の科学技術を発展させるうえで欠かせないツールであることは間違いないけれども、その利便性や有用性にとらわれがち。言語は情報に限定性をかけてしまうし、そもそも言語ですべてを表すなんてことはできないですよね。
言語の限界性を認識して、子どもの感覚や感情をまるっと受け入れて、なにも言わずに見守ることもすごく大事だろうなと感じました。
ーーところで、青砥先生も藤原さんも自身がやりたいことに突き進むことができる方だと思います。一方で、多くの人々は他人の目を気にして自分の行動を制限してしまう。なぜ私たちは他人の目を気にしてしまうのでしょうか?
青砥先生:人間だけではなく社会的な動物は、ひとりでは生きていくことはできないので、他者が自分に対してどう感じているのかを気にしてしまうことは、必要な仕組みです。それ自体は悪いことではないけれども、今の社会では他人から評価をされることが多すぎることが問題。
なぜかというと、他者評価は我々の感情を揺さぶりやすい特徴があり、そして感情が揺さぶられたことは記憶として残りやすいから。我々の脳は、どんなことがあったかというエピソードの記憶だけではなく、そのときの感情の記憶を保存するしくみを持っています。
強い感情記憶はエピソード記憶と紐づき、我々の「予測」や「価値観」となって思考や行動原理に影響を与えやすいのです。
たとえば親に叱られ続けたら、それを回避する方向に向かって、怒られないようになんとかしようというモチベーションが作動しやすくなります。逆に褒められてばかりだと、より他者からの承認を求めて行動をするようになる。どちらも他者ベクトルからいざなわれるモチベーションによって、行動が促されることです。
ーー他者からの承認や否定ばかりを気にして自分の行動を選択してしまうことですね。子どもにも意外と多いような気がします。
青砥先生:はい。しかし、自分の好奇心や想いを度外視して、他者ベクトルによって行動する状態は脳にとってはストレス状態であり、それを長く続けることは望ましくありません。他者ベクトルだけではなく、「それで、自分はどうしたいの?」という自分ベクトルを持つことが本来はとても大切ですよね。
藤原さん:たしかに自分の声に耳を傾けている人は少ないように思います。
青砥先生:僕はいわゆる「自己満」がけっこう大切だと思っています。他者承認を軸に行動しやすい世の中だからこそ、自己満足を大切にしていく。逆に言うと自己満足すらできていないのに他者に満足を与えることができるのでしょうか?
他者との比較ばかりが基準になりやすいけれど、自分がどれだけ満足したか、成長したかという基準をもっと大切にしたい。その延長線上でたまたま他人を超えられるかもしれない。藤原さんの無駄づくりには自己満足が包含されていると思いましたが、どうでしょうか?
藤原さん:もちろんそうだと思います。私は中学生のときの自分がカッコいいと思ってくれるような自分になりたくて、毎日いろいろな活動をしています。それに、私は手を動かして創作をしている瞬間や、完成して「面白いものができた! やったー!」みたいな瞬間が人生のなかでいちばん好きなので。だから、他人からの評価をまったく気にしないわけではないですが、重きは置いていないですね。
自分の軸を持って好奇心にしたがって行動しているのであれば、他人の評価があまり気にならなくなるような気がします。たとえば「虫なんて気持ち悪いじゃん」と言われても、好奇心を大切に育っていたら「私は好き」って強く言える子どもになるんじゃないかなと。
青砥先生:そのとおりだと思います。これにはふたつポイントがあり、ひとつは何かをやり遂げたときに「よし! やり切った!」みたいに結果をとおして自己を満足させること。もうひとつはプロセス自体を楽しんでいるか、満足しているかどうか。
僕は藤原さんとの対談がどんなものになるのかまったく想像もできない状態で今日来たけれども、こうして紐解いていくプロセスがやはり楽しいなと(笑)。道中を楽しめるかどうかが、自己を満足させられるかどうかということにつながるのかなと思います。
興味の対象がコロコロ変わったとしても脳は育まれている
青砥先生:藤原さんは創作活動をするときに、どのようなきっかけで始めていますか?
藤原さん:初動はやっぱり好奇心ですね。「こういうものがあったら面白そう。実際に見てみたいな」と、妄想からスタートすることが多いです。
青砥先生:そうだと思いました! 僕は藤原さんのようなタイプの人を“Future magician”と呼んでいます。「どうなるのかわからないけれど、なんか面白そう。作っちゃおう」みたいな好奇心にいざなわれて始まるアプローチがあって、そこで生み出されたものが必ずしも世の中をよくするとは限らないけれど、想像もつかないようなものができる可能性もある。
一方で”Future hero”と呼んでいますが、新しいものを生み出すときに課題解決的なアプローチをするタイプの人もいて、世の中を便利にしてくれたり、効率をよくしてくれたりする。どちらがいいという話ではなく、どちらのタイプも必要な存在だし、脳の観点から見るとまったく違う脳の使い方をしています。
でも、”Future magician”タイプの人はとても少なくて。「あったらいいな」という妄想からなにかを生みだしていく人がもっと多かったら、なんだか面白そうじゃないですか? 好奇心ドリブンな探究を止めないで、妄想を形にしていく人がもっと増えていったらいいなと思います。
ーー好奇心からスタートしたことでも、途中でどんどん脱線しちゃったり、最初に好奇心を持った内容とは全然違う方向に行くこともありませんか?
藤原さん:たしかにやっているうちに好奇心が薄れてきて、最後までやり遂げなかったり、違うことにハマったらそっちにいっちゃうことはけっこうあります。子どもだったら、お母さんに「ちゃんと最後までやりなさい」とか怒られますよね(笑)。
青砥先生:僕は、好奇心の対象が変わり得るということを認めることも、好奇心を大切にすることの一部だと思います。それは、集中が続かないとか分散的とか、グリッド力がないなどと言われてしまったりするのですが。
ーーたしかに子どもが一度始めたことは最後までやり切るように説得することが親の役目だと思うこともあります。
青砥先生:もちろん最後までやり切る大切さもありますよね。ただ、それが全てではないと思っています。たとえば、僕の甥は、以前は警報機にはまっていてそこに熱中していると思っていたら、次に会ったときには興味の対象が変わっていて、今度はGoogle mapに没頭していました。
警報機とかGoogle mapに没頭して何の意味があるのか、と言う人もいると思います。ですが、以前話したように好奇心にいざなわれてなにかに没頭しているときは、VTAというドーパミンを作る脳の部位が使われていて、そこが確実に育まれている。興味の対象が変わったからといって、脳が育まれていることには変わりはありません。
そして、こんなにも自分の好奇心に素直に探究をすることは、見える世界が広がることだと思います。彼といっしょに外を歩いていたら、同じ道を歩いていたはずなのに、彼だけ蛇の抜け殻を見つけていたり(笑)。いろいろなところにアンテナを張ってる彼にとっては、普通の世界を生きているようでも、宝物がたくさんあるんですよね。
それに、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、完成できていない作品がめちゃくちゃたくさんあるんですよ。続ける重要性も当然あるけれど、子どもの興味が好奇心ベースであちこちに飛ぶのであれば、大人はそこも大切にしてあげるスタンスが大切だと思います。
自分を受け入れてくれる環境を内と外に持つこと
ーー大きな器を持っていて、無駄なことなんてないと思っていたとしても、他者から無駄=無価値だと言い切られてしまったときに、心の持ちようとしてはどうしたらよいのでしょうか?
藤原さん:私は家族や周りの人に恵まれていて、あまり面と向かって無価値と言われた経験がありません。でもSNSで批判をされたことはもちろんあるし、心無い声に心が折れてしまったりその行為自体をやめてしまったりする人の気持ちはわかります。
自分が大切にしているものを、外に出すか出さないかの線引きを自分のなかでしっかり決めるといいのかなと思います。SNSに載せるか載せないか、好きなことを他人に話すか話さないか、そのようなことを線引きして、自分のなかだけで大切にしていく部分を作ったほうがいいのかもしれません。
私は高校生のときに学校に行かずに映画をひとりで見に行った記憶があるのですが、その映画の内容はまったく覚えていなくて。そう考えるとそれは無駄な時間だったと思いますが、映画の帰り道の風の冷たさとか感覚だけは覚えていて。そのような感覚が残っているということが、人生の潤いなのかなと思いました。
青砥先生:藤原さんが好奇心のままにいろいろな活動をできるのは、ありのままの自分を受け入れてくれる両親だったり、共感してくれる友だちがいたのかなと思ったのですが、どうですか?
藤原さん:そうですね。私は両親にあまり怒られたことがないし、いいねと言ってくれる友だちもいました。ただ、それだけではなくて私のなかで大きかったのは、憧れの人の存在なのかもしれません。それは会ったこともない芸能人だったりするのですが、「こんな人になりたい」という憧れの像を大体いつも持っていました。
だから、他人からなにか批判をされたとしても「〇〇だったらこんなふうに言われても絶対にくじけないだろうな」と考えたり、その理想像に救われる部分がとても大きかったです。
青砥先生:憧れの存在が自分の中にあるんですね。僕も今日はダ・ヴィンチとかアインシュタインとか真面目な話をしましたが、最初に影響を受けた人でいうと漫画のキャラクターの存在が圧倒的に大きいですね。「ルフィだったら~」「悟空だったら~」と、自分の憧れとして思い描く人物像になりきることで乗り切れることってありますよね。
その人だったらどうするかという思考モードや、心のよりどころを持つことは素晴らしい。それは両親でも芸能人でも漫画のキャラクターでも歴史上の人物でも誰でもよくて。藤原さんは自分のありのままを受け入れてくれる存在が自分の内側・外側の両方にあったんですね。
藤原さん:内側に憧れの有名人、外側には家族や友だちの存在。たしかにそのとおりですね。
ーー藤原さんの無駄づくりに多くの人が心を惹かれたり、SNSでシェアしたくなるのはなぜだと思いますか?
青砥先生:あくまで想像ですが、一種の「救い」を感じているのかもしれない。あるべき論や、有用性や価値ばかりが語られることが多い社会で、藤原さんは逆張りをして無駄を作っていく。そんな様子を見ると「それでいいんだ」と救われている人も多いのではないでしょうか。
藤原さん:たしかにSNSでは「癒される」というコメントをよくいただきます。仕事ややらないといけないことがたくさんある毎日のなかで、私が無駄なことをやっている姿に癒されると言ってもらうことが多いですね。
青砥先生:そうですよね。今の社会、SNSの世界も、有用性や価値のある情報があふれています。そのなかで生きていると、自分も「〇〇でいないといけない」「〇〇を頑張り続けないといけない」、そうでないと自分の価値がないのでは?思ってしまいやすい。そして自分で無意識的に上げた高い期待値と自分の現在地との差分にストレスを感じているのではないかと思います。
そんな世の中とは反対に、社会にとって有用でも価値でもないかもしれない「無駄」をつくり、多くの人に発信している。藤原さんの無駄づくりは、「むずかしく考えないで、やりたいようにやってみよう」「自分もそれでいいじゃない」というポジティブなマインドセットを持つことにもつながっているのではないでしょうか。